人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

in good faith

 

誠実であることの定義を、僕はその瞬間に出せる全てを尽くすこととしている。
今日の僕は誠実だったかなあ。
今朝、また発作が起きてしまって、出勤できなかった。細かい話になってしまうから書けないのだけど、原因は思い当たる。
原因が思い当たるのだから対処しておくべきだったし、なにより今朝の自分は自分にも会社にも誠実だったかなあ、と。
過呼吸でボロ泣き状態だったし、あんまり精密な記憶はない。それにあの場でできるベストは尽くせたとおもう。
だけど、誠実だったかなあ。逃げたいと、一瞬思ってしまったんじゃないかなあ。
うん、ていうか、思ったのよ。逃げたいって。逃げることは必要なことで、逃げることが誠実である場合もあるけれど、今朝のはたぶん、違った。本気で全力を尽くせたら、逃げたいと思わずに済んだんじゃないかと思う。
店からしたら、朝からパニック起こしてるやつを店頭に立たせるのはリスクだし、休んでいいよと言ってもらって、それは自分も甘えさせてもらった。だってあの状態で無理やり出勤して中途半端な仕事するほうがよっぽど不誠実だと思ったから。

どうしても、朝目が覚めた瞬間に仕事に行きたくない日がある。うつ病になった会社に出勤していたときと似ている要素があるときはなおさら。吐きそうになるときもある。
それでも家で薬飲んで震えていることしかできなかった頃より、電車に乗って職場に向かって、職場の人にすみませんちょっと無理っぽいですって電話ができるようになったことは、褒められるべきだと思う。ていうか実際偉いと思うんだよ。
だけど、そこで満足しちゃだめなんだ。
体調が悪い日は、悪い日なりの。仕事に行きたくなくて発作が起きてしまった日は、起きてしまった日なりの。起きそうな予感がするときには、起きそうなときなりの。それぞれの対処法みたいなものをきちんと考えて、それをこまめに実践していかないといけない。それで働けるようにならないと。だってそういう発作とは、これから短くない期間付き合っていかないといけないのだし。
行きたくないとわがままを言う感情をなだめて、大丈夫なんとかなるよって一歩踏み出せるように。自分の言霊で自分の感情を洗脳しながらでもきちんと働くこと。それが僕がいま、自分のために尽くしたい誠実。
家族のためにも、僕が元気で発作を起こさずに週5で働くのがいまは必要なことだし、それが家族に尽くせる僕の誠実だから。

大丈夫。店に着いてさえしまえばなんとかなる。そこまでがちょっとハードルだけど、乗り越えられるハードルだから。
ポイントは前日にしっかりと準備をしておくこと。しっかりと準備を終えた状態で、自分に大丈夫の呪文をかけること。夜も朝も、自分に大丈夫って言ってあげること。そして大丈夫と言えるだけの準備をしておくこと。
それを繰り返せばそのうち少しずつ乗り越えていけると思うから。

後ろばっかり向いていても仕方ない。後悔よりも反省と分析を次への傾向と対策の糧にしていきたい。
誠実でありたい。他人にも自分にも家族にも。働くことにも。いつまでも怖がってはいられないし、いつまでも被害者ぶってもいられない。

 

花は散っても青春は散らないんですよ

 

良質なエンターテインメントというのは素晴らしいものです。今日「紳士のための愛と殺人の手引き」という舞台を見てきて、それはそれはよくできたコメディミュージカルで、頭空っぽになるまで笑って楽しめた。ウェンツ瑛士さんのミュージカルは一度見てからはできるだけ観るようにしているのだけれど、本当に観るたびに良くなっていくし、市村正親さんは芝居に愛されたバケモノだなと改めて。

 

最近、まぁおおむね春のせいなんだけど凹んでいて、あんまり元気じゃないことが多かった。気圧だか気温だかなんだか知らないけど冬と春って憂鬱になりがちでしょう。すくなくとも僕はそうで、桜を見たら死にたい死にたいとずっと思ってしまう。なんで桜ってあんなに死に近い花なんだろう。あと春は死と性の季節だと思っているから、春になると自分の性欲と希死念慮をもてあましてしまう。希死念慮なんか通年もてあましているというのに。今年は3月が自分にとってひとつの区切りだったからなおさらなのかもしれない。

でもまぁ今日ケラケラ笑ってきたからまぁいいかなって。

 

先日ひとつのものごとに挑戦して(と、書くとそれっぽいけど、副業のバイトの面接を受けて受かっただけ)、その後見事に玉砕(出勤しようとしたらうつ病起因の発作を起こしてどうにもダメでクビになった)して、あーーって、さすがにちょっとまた自責モードになってしまって。自分を過剰に責めてもなにも生まないことはわかっているのだけれどね。

でも失敗によってできた傷を治すにはまた挑戦するしかないんだよなあと。

僕はどうしても自分の行動なのに人のためを気取ってしまうし、それゆえに言い訳を作ってしまいがちだし、なによりとても面倒くさがりで逃げる口実を見つけるのがとてもうまい。そういう自分の特性みたいなものはわかったうえで、でもやっぱり繰り返して繰り返して慣れて、何度もトライアンドエラーを繰り返しながら自分と向き合っていくしかないんだろうなあと思います。繰り返すけれど、失敗でできた傷を癒すには次の挑戦しかない。それもできるだけクールでクレバーな挑戦。

うつ病ですね、ってはじめて診断されたときのことは未だに覚えている。そのときはこんなに長く付き合う羽目になると思わなかったから、正直戸惑ったりもするけれど。ヒステリーになっても自分を責めてもほとんど意味はないから、冷静で(できるだけ)客観的な反省と分析、それに基づく次の行動。いまはそれを繰り返すことこそが、自分にできた傷を癒すこととイコールなのかなと思ったりしたりらじばんだり。

 

とにかく過剰に自分を責めてもしょうがねえ。そもそもの初期型スペックが決して優秀じゃないからなかなか新しいOSの「自責しない」っていうのが体に浸透しないのだけれど、とにかくすべきは自責ではなく反省だ。

ことばは前向きに置き換えて。口角上げて。明るく楽しく元気よく!清く正しくはちょっと無理だけど!笑

自分の審美眼が認める自分になることを志し、心がけ、そして行動に移していきましょう。なりたい自分は遠いけど、まるでなりたい自分そのものであるかのように振る舞うことで、そのうち境目がなくなってくると思っているから。何度でもいうけどことばは前向きに置き換えて。言霊を込めて。一瞬の誠実を常に尽くして。口角上げて視線も上げて。クールでクレバーに。good luck to me and you!

 

 

パノラマシスター

 

2013年にpanorama×42ツアーのシスターのストリングス付きの音源を聴きながら書いたものの再掲です。ツイッターのアンケの参考までに。笑

 

 

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なぜ世界が今日も動いているのか、それだけがどうしても理解できなかった。僕の世界はあの日、音さえも立ててくれないままあっけなく崩れていったのに。どうして今日も僕は目覚めて、市場は人であふれて、道には笑い声がおきているのかわからなかった。いつだって僕のわからないことや知りたいことを教えてくれるのはあの人だったから、今の僕に知りたいことを調べるための手段なんてないも同然だった。
眠るためのベッドの置かれた屋根のある部屋ならあったけれど、そこが自分の家だとはどうしても思えなかった。そこに住んでいる人が家族だとも思えなかった。誰かととる食事は美味しくなかった。一人で食べるパンは味がしなかった。みんながほめる街並みも、美しいなんて思えなかった。レンガ造りの建物と赤っぽい橋を遠くに見つめながら、僕は今日もすこし古ぼけたベンチに座る。
本当なら、ここにいれば声が聞こえてくるはずだった。崩れていく前の僕の世界ならば。
「おとなり、いいかな?」
歌うみたいにやわらかく響く声。視界に入る鮮烈な赤い日傘。
「いつもここで本を読んでいるでしょう?」
人目につかない場所だった。そのベンチは高いレンガの陰になっていたし、雑草も乱暴に生えていた。あちらにある橋や大通りのほうがみんなは好きみたいで、だから僕はここに座っていた。どうしてここに人がいるのだろう。
あなたは微笑んで、自分も本が好きなのになかなか話の合う友人がいないのだといった。前に一度たまたま見かけてから、いつか声をかけてみたいなと思っていたの、と。手元に光る時計と、それにかかる長い袖のシャツが、明らかに僕とは住む世界が違う人なのだということを物語っていた。
「ディッケンズでしょう?昨日読んだばかりで、なんて偶然かと思って」
「僕は、三回目くらいだけどね。あまり多く、本持ってるわけじゃないし」
「その、三回目っていうのは多いほうなの?それとも、特に気に入っているわけではない?」
「回数でいったら、多いほうではないかな。でも、とても気に入っているよ」
本当に?とぱっと笑ったあなたの顔が、とても眩しかった。どうして眩しいのかわからなかった。思わず目を細める。それからあなたは嬉しそうにディッケンズについて話しはじめた。僕はときどき相槌を打って、同意して、いくつかの意見を付け加えた。クリスマス・キャロルを素敵だと思うのに、デヴィッド・コパーフィールドを読んだことがないなんて。
「うちにあるかなあ。探すの、すこし大変かもしれない」
「もしかして、とても大きな書斎があるおうちに住んでいたりするの?」
僕が尋ねるとあなたはひとつ苦笑いをして、うんとだけ答えた。見ればわかるよ。服装も、言葉遣いも、指先のしぐさひとつ取ったって、僕らと同じそれじゃない。こんな時間にひとりで出歩いたりしていいのかと聞いたら、その白い人差し指を立てて唇に押し当てた。
「ねえ、明日もここに来るでしょう?」
「…どうして」
「よかったらその、デヴィッド・コパーフィールド、貸してもらえないかな。読んだらすぐに返すから」
こちらを見つめる視線に僕の瞳を重ねて、眼が茶色がかっているのだと気づく。
「いいよ」
僕の答えににっこりと笑うその顔がまた眩しくて、僕はまた眼をそらした。ありがとうという声は、やっぱり歌うようだった。
「ねえ見て、夕焼けがとてもきれい」
そう示されて、下に落としていた視線をあげた。夕焼けは、僕の目には痛いほど眩しかった。この眩しさはさっきも感じたはずだ。
「きれい」
あなたがまた言う。この眩しさのことをきれいと呼ぶのなら、あなたが笑った顔もとてもきれいだった。そう思って、でも何も言わなかった。
その翌日も、味がしないパンを無理やりに飲み込んで、それからディッケンズを持ってあのベンチへと急ぐ。いつものように建物はぼんやりと赤く、口の中の水分は先程のパンに奪われたまま戻ってきていない。
足を少し早めてその場所へ着いたとき、あなたがバイオリンを弾いていた。
僕は最初それがなんなのかわからなかった。あとであなたがそう教えてくれるまで、バイオリンというのは僕にとって小説の中に出てくるふしぎな楽器のひとつだった。
「……すごい」
「えっ!?…なあんだ、驚いた…来てたんだね、聞いてたの?もしかして。恥ずかしいなあ」
「すごい…すごいね」
僕の間が抜けたコメントにあなたは噴き出して、それから笑って「ありがとう」と言った。その微笑みと声がとても眩しくて、きのうの夕焼けを思い出した。きれい、という形容詞は、きっとこういうときに使うんだろう。
はい、と本をベンチに置く。あなたはまた笑って本を手に取る。それをかばんにしまうと、こんどはそのバイオリンまでしまってしまおうとした。
「待って」
くるりと振り向いたあなたの目を視線でとらえた。あんなに必死に誰かの目を見つめたのは、たぶんはじめてだった。
「もっと聞きたい」
あの日聞いたあの旋律を、そのあと何度も聞かせてもらったあのメロディを、僕はいまだにくちずさむことができる。いつものベンチに座っていつの間にか閉じていた目を開けると、もう太陽がどこか遠くの血を照らすために姿を消していくところだった。あなたのいない世界の時間はデタラメだ。あっと驚くほど速くすぎるのに、ため息が何度もつけるほどに間延びしている。あんなに眩しかった夕焼けも、あなたがいないと眩しくない。あなたがいなくなってから、きれいだという形容詞を一度も使っていない。一緒にみたはずの夕陽も建物もあの白い花でさえも、もう眩しくないのだ。結局のところ、僕にとってただ唯一のまぶしさの正体はあなただったんだろう。ねえ、今更気づいた僕を、馬鹿だと笑いに迎えに来てくれないかな。赤い日傘をさしておいでよ。
あたりを見回して赤い日傘を探す。立ち上がってくるりと回って、あなたが見つからないという何百回目かの事実にうちひしがれる。座りなおして、もういちど目を閉じた。
いくつかの季節を超えても、僕らのひっそりとした読書仲間の関係は続いていた。本の感想を求めあったり、本を貸し合ったりした。夕焼けを見てきれいだと言い合ったりもした。はじめてあのベンチで一緒にパンをかじったとき、食事とはこうも胸があたたかくなる行為なのかと驚いたことは、今でも忘れられない。あなたはいろんなことを知っていて、日々姿を変える月の呼び名や星の名前、道行く人々の手にしている新聞の内容や、パンにつけるとおいしいジャムのことを教えてくれた。僕は知らないことだらけだった。でも、野に咲く花の蜜が甘いことや、よく吠える犬からうまく逃げる方法なんかは僕のほうが知っていた。あなたは僕がそれらを言うたびに、まるで心の底から感動したような声を出して僕の頭をなでた。すごいね、と言われるたびに、僕の心臓がいつもより大きな音を出した。
ある日、道端で鮮やかに咲く白い花を見つけた。あなたになんとなく似ていたから一輪摘んで持って行った。「きれい」と喜ぶあなたのほうが、花よりもずっと眩しくて、僕は毎回、一輪ずつあなたに手渡した。
ねえ、またあの花が咲く季節がやってきたよ。
おかしいと思ったのは、季節が巡ってもあなたの服装が長袖のままだったからだ。暑くて、僕は服なんてあるいは必要ないほどだったのに、あなたは手首の腕時計にかかる丈の服をまだ着ていた。
「暑くないの」
「暑くはない、けれど、この季節の太陽は眩しすぎてしまってだめだね」
「眩しすぎる?」
「だから、陰になっているこの場所がとても好き」
あのとき、どうしてもっと深く聞かなかったのだろう。
それからあなたの白い指先は血の気を失って、花が咲くみたいだった頬も色味を失っていった。「どうして」と聞いても聞いても、「なんでもない」としか答えてくれなかった。貸した本が返ってくるペースが遅くなって、毎日だったひそやかな読書会が二日に一度になった。僕が理由を問い詰めようとするとあなたはバイオリンを弾いた。それを聞いてしまうと僕は聞き惚れてしまって、なんにも言えなくなる。わかってそうしていたのだから、あなたはずるい人だ。
「ねえ、もしもここに君しかいなくなったらどうする?」
突然聞かれた時のことは、教えてほしい、どうしたら忘れられるのだろう。
「どうするって、あなたは?」
「いなくなってしまうとしたら」
「そんなの、いやだ」
「いや、じゃなくって」
「いやだ。いなくならないでしょう?」
「わからないよ、そんなこと。だから聞いて。ねえ、もしここに君しかいなくなってしまったとして、そうしたらね――」
お願いね、と微笑んだあなたの顔色はとても悪かった。でもとてもとてもきれいで、僕はきれいなのにとても悲しくなった。あなたが僕の頬に触れている理由もはじめはわからなくて、熱いような冷たいような涙を拭い去ってくれているのだと気づいたときにはあなたも泣いていた。いやな予感が当たらないことだけを、切実に望んでいた。
ねえ見える?今はもう、涙なんて出ないよ。
「またあした」をはじめて守ってもらえなかった日から数日して、黒い服を着た大きな男がその場所へやってきた。男は名乗らなかったし、何も言わなかった。ただ僕の姿を確認すると、ひとこと…それまはるで死刑宣告みたいだった。
「昨日の早朝でした。ちょうど日の出る時間でした」
そう告げると僕に、あの白い花を押し花にして栞にしたものを手渡した。あの方の部屋には何十個もこれがありますよと付け加えて。僕はその日に返すつもりだった本をその男に渡してしまった。
僕はまた眼を開ける。夕焼けが最も美しい時間はすこしすぎて暗くなり始めていた。今日も世界はこうしてまわっている。ギリリギリリと世界がきしんでいる音がする。みんなには、聞こえないのだろうか。僕は立ち上がって、手のひらに握りしめていた白い花を風に飛ばした。黄昏と一緒に飛んでいけばいい。そしてあの人を探し出して、もう一度僕の前に…もう一度だけでいいんだ。ただひとこと、言いそびれてしまっているだけなんだよ。あなたの弾くメロディが、あなたの貸してくれた本が、あなたの声が、あなたのすべてが、僕にありとあらゆるはじめてをくれたのに、僕は何にも言えないままだった。
すべてを手放したはずの手のひらを見ると、汗でぺたりと花びらが一枚残されたままだった。ねえ、ひとことだけなんだよ。ただ、ありがとう、と…その一言だけあなたに言えていたなら。その後悔も一緒に、手のひらに残っている。

「わからないよ、そんなこと。だから聞いて。ねえ、もしここに君しかいなくなってしまったとして、そうしたらね、気が向いたときにでいい。年に一度でもいい、いや一度でもいい。その白い花で、元気にしていると教えてほしい。きっとどこかで見ているから」

 

 

***

シスターの美しさに敬意をこめて。

 

 

ラブイーメール・フロム・ヴィーナスなスタンプ

 

ファンレターを書くのはしぬほど緊張するけれど、僕は手紙というのが好きだ。メールも好き。電話も楽しいけど電話なら面と向かって会う方が好きかな。なにより手紙やメールのなにがいいって、それを何度も読み返せること。

相手のあることだし、あんまりひけらかす類のことでもないのだけれど、僕はそういう、何度も何度も読み返して、ああこの人と出会えてよかった、こういう風に言ってくれる人がいたことだけで頑張っていけると思えるような手紙やメールやラインをいくつか頂いたことがある。
それはツイッターのリプライでもそう。たとえばしーくんはgood luck to youそのものだから、と言ってもらえることでどれだけ僕が救われるか。目指すものは遠くて、でもさも目指すものであるかのように僕は立ち振る舞おうと心がけているから、そう言ってもらえることがどれだけ嬉しいかと。だからリプも嬉しいとすぐスクショ撮っちゃう。

個人的にはリプライよりはライン、ラインよりはメール、そして最大は手紙だ。
僕はきっと「世界を見に行く」という本と一緒に届いた手紙を手放すことはないだろうし、好きな女の子が酔った勢いで目の前で書いてくれた手紙を捨てられないまま生きて行くのだと思う。
そういう、これは絶対に手放せないなと思える手紙が最近増えた。何度も読み返すだろうなという手紙が。
僕がああなりたい、∠RECEIVERになりたいと思っていることを全肯定して、あなたならなれるよ、って書いてあるみたいな手紙だった。

誰もが認めるハッピーエンドだけが人生ではないし、ハッピーエンドには数え切れないほどの種類があるべきだと思っている。そこに必要なのは誠実さの積み重ねだ。
誠実というのは、一瞬に込められる全力をきちんと込めた瞬間にだけ訪れる。手紙って書く瞬間に込められた誠実さがダイレクトに伝わってくるから、たまに怖く思うときもあるけど、でも、手放せない手紙がある人生を、何度も読み返す手紙がある人生を、僕は幸せだと思う。心の底から。

今日はそんな手紙を読み返したスタンプをおした日でした。あんまり大きくないかもね。
あと、桜を見たよ。春に桜を見るなんてスタンプ小さいけどたまにはいいんじゃないかな。死ぬことについて考えながら見る桜ほど美しいものもなかなかない。
あしたは芝居を観に行くよ。あしたはあしたでスタンプをおそう。

 

誰からの手紙かって?秘密です。

 

 

報われたスタンプの巻

 

人生はスタンプラリーだと、敬愛するギタリストが言っておりまして。
http://haruichi.air-nifty.com/harujp/2006/07/post_cf20.html
もともとこのブログは人生におけるスタンプをおしたよ、という記録を書き残すために作ったはずなのに、気づいたらドリフェスのダイマブログになっていた。おかしい。いやある意味正解なのかもしれないけれど。

というわけで今日おした人生のスタンプラリーのお話。
フォロワーさんに会いまして。ふたりで会うの初めてだったってかいっかいライブでお会いしただけだったから案の定最初「ドコデスカー」だったんだけど気づいてくださって(ありがたい)、ポルノのライブDVD見たり嵐のDVD見せていただいたりしてはしゃぎ倒してきたんですけど(うぇ⤴︎ンディを見た)。
ご飯食べてるときにお礼を言いたくて、と切り出されて動揺していたら、「友人からのカミングアウトをさらっと受け止められたのはたぶんあなたの普段のツイートを読んで「そうなんだ」って思える下地が出来ていたからだと思うんです」と。

これスタンプめっちゃでっかいの押して良くないですか?笑

別のフォロワーさんにも「しーくんフォローしてなかったら性自認なんて言葉きっと知らなかった」って言ってもらったことがあって、そのときも心にでかいスタンプ押したんですけど。

僕が親族以外に(場合によっては職場でも黙ってるけど)カミングアウトしまくるいわゆるオープンな状態で生きているのは、そういう人がいてくれたらいいなと思うから。
僕は女の子と自分を認識できないけれど身体は女で、恋愛に性別は関係なくて、言ってしまえば広義のトランスジェンダーでパンセクシュアルなわけで、でもそれをこれだけ堂々と公言している人と出会うことってなかなかすくないから。
数字的には少なくないはずなんだけどね、いわゆるLGBTsって。
自分がカミングアウトしたときにいろんな対応されてきたからこそ、いざカミングアウトされたときに「あっそうなんだ〜」ってふつうに受け止めてくれる人がひとりでも増えたらいいなあって、その1つのきっかけに自分がなれたらいいなあって思ってわざとオープンにしているから、そういうことを言ってもらえるのがとても嬉しくて。

でもそのためにわざわざお礼を伝えてくれたり、自分なりに考えたりしてくれたのはそのフォロワさんが賢くて心が豊かな人だからなんだよね。きもちわるいな、って思ったら蹴飛ばせばいいし実際僕は少なくない数蹴飛ばされてきたから。でもそうしなかった、それはその人の心の豊かさのなすものだと思う。

今日はそれがとても嬉しくて(同時にとても恥ずかしくて頼んでいたポテトをじゃがりこみたいに端からもそもそ食べたりなどしてしまった)、ああなんか、言葉を書くことを億劫がらずに、かつオープンにする道を選んできてよかっなって。すごく嬉しかったから、今日は僕のカミングアウトが報われたスタンプ。これは、でかいです。笑

これからも何度でも言葉にしていこうと思うし、幸い言葉に立ち向かうのは苦手ではないし好きだから、いつか誰かにポジティブな影響を還元できるまで、僕は言霊を信じていたいと思う。それが報われた今日でした。どうもありがとう。

 

 

 

新年度やで

4月になりましたね!4月にがんばることです。

 

【数字編】
・2キロ以上痩せる(誰かほしい物リストプロテイン買ってください)
・2冊本を読む
・映画を1本は見る
・ごはんはひとくち20回噛む

【習慣編】
・書きたいときに書きたいことを書く。
・寝られるときにはきちんと寝る。
・「いただきます」「ごちそうさま」「ありがとう」「おはよう」「おやすみ」をきちんと言う。
・ひとりのときは階段を使う。
・引き続き不要なアルコールとカフェインはとらない。カフェインは16時まで。
・背筋ピーン!する。猫背やめる。
・物理的に前と上を見て生きる。
・物理的に口角を上げる。
・1日に何度かは意識して腹式呼吸をしてリラックスタイム作る。声も腹式で少し低めに出す。
・週に3時間は英語の勉強(テキストとTOEIC)の勉強をする。
・ランニングしながらスピードラーニングを聞く。


【意識編】
・事前に時間と金額の打ち合わせをする
・一気にいろんな予定を詰めすぎない。自分のメンテ優先。
・遅刻グセを直す。
・10分前行動
・自分も他人もdisらない。自分のことはやればできる子!えらい!がんばりやさん!って言う。
・呼吸をゆっくり深く。腹式呼吸
・できないことがあっても自分を責めない。


【余談】
自分にとって怒涛だった3月がついに終わってしまいました。なんかいろいろあったんだけど、無事に終わり。
で、4月からダブルワークになります。
元々のバイトも環境変わるし、新しい仕事も始めるので、かなりしんどいんじゃないかと思います。わかんないけど。
だからこそ意図的に口角を上げて。日光浴びて。元気出していきましょう。
まずは休まずなんとか乗り切ること。
でも、どうしてもしんどい、むりだってなったときに、自分を休ませる決断がきちんとできることも、目標です。

これとは別に趣味でやりたいこと一覧もあるんだけどそれはまぁここには載せなくていいかなっていうのだから(CD予約するとかそんなんだから)、月末にコンプリートできたかどうかまたブログ書きます。

実はこういう今月の目標みたいなの、今年入ってからこういう風に作ってたんですけど、はじめて人に見えるところに載せます。恥ずかしい。けど気持ちいい(?)

 

とりあえず、部屋片付けないと。

 

年度末ですね。

 

最近の深刻な悩みなんですが、若手俳優さんへの差し入れって何にすべきなんでしょうかね。舞台とか見に行ったときの。毎回ちょっとずつなにか渡したほうが、スタッフさんたちにも「ああこの人は人気があるんだな」と認識してもらえるかなと…。本当は周囲に「この俳優にはファンがいる」って認識してもらうにはお花なんでしょうが、スタンドフラワー送るのは舞台とかだと厳しいと思うのでっていうか僕に金がないので…。

ドリフェス!というジャンルにはまってからますますアミューズに貢ぐようになったと同時に、ちょっとしたイライラや悩みはドリフェス!で発散できるようになりました。ドリフェス!はいいぞ。もちろん今まで足を踏み入れたことのないジャンルなのでためらったり動揺したりすることもたくさんあるんですけど。

そんなこの頃です。

僕は今、まあようするに子供に英語を教える仕事をしているんですが(これ以上言いようがないのであとはご想像にお任せします)、子供って本当にかわいいですね。
教えたことをすぐに実践してくれようとしたり、レッスンの時間外でも「これがむずかしい」と言って聞きに来てくれたり、トランプ米大統領金正男氏暗殺のことなんかは「あれって怖いの?日本はどうなるの?」って聞きに来たり。
かわいかったのはまだ小さい子に「yummy!」という表現を教えた日。翌日に「きのうのごはんがすごくやみーだったんだよ」とわざわざ来てくれて。この子は天使か?と思いました。まあ子どもってみんな天使というか、すべての子どもはこの世界から完全に無条件に祝福され、愛され、そして支えられてすくすくと育つべきなのだと、それをできうる限り実現できる世界へ近づけていくのが僕らのやるべきことなんだとますます思うようになりました。

それから、いわゆる「ピグマリオン効果」を体感し、信じて実践するようになりました。あれね、あの周囲から期待された子は成果を出し、周囲からあきらめをぶつけられる子は自分もあきらめるようになるってやつ。批判も多いしわりと俗説っぽいとこがあると思うんですが、僕の体感では実際にその効果はあるなぁと。期待された子が成果を出すのもそうだけど、その逆をすごい強烈に感じるんです。「あんたなんか」って言われると、「どうせおれなんか」って言う子どもになっていく。「もう怒る気にすらならない」と𠮟られなくなった子はどんどん怒られるようなことをしたりとか。でも逆に多少おちこんでたり元気がない子には「君はがんばりやさんだね」「大丈夫だよ」って伝えるだけできちんと心を開いてくれるようになる。できなかったことができるようになるのは、よほどの例外を除けば努力ゆえ。だから「できたことを偉いとほめる」のではなく「できるようになるために頑張ってえらい」とほめる。そういうことをすこし意識しているだけで、子供の目に映る自分の顔って変わるんです。
とはいえ、僕がこんな生意気を言っていられるのは、僕の本職が「教師」ではないからなんでしょう。あくまで英語を教えるだけだから。なんだかんだバイトだからね。さらに言うと親でもないからなんでしょう。もっと親密に子供と触れ合い続けるようになれば、違うことを思うのかもしれないし。

それでも僕は、すくなくとも僕とあの子たちのあいだにおいてだけは、ピグマリオン効果があると信じるし、同時に言霊があると信じる。
卒業とか辞めたりとかで、今日が最後だねっていう子どもに必ず伝えていたことがあって、それは「あなたと私で考える」ってことだった。もちろん子供の学力程度に合わせて言葉は変えていたけれど、おおむね以下みたいな感じ。
「あの人は〇〇だからという思い込みを捨てるほど、自分の人生は豊かになる。あの国の人だから、あの宗教の人だから、男だから、女だから、何歳だから…っていういろんな〇〇だから、じゃなくて、「あなたとわたし」になること。僕と君の関係で、その人の〇〇を忘れてその人と向き合うこと。そうやってたくさんの人と出会って話をすることは、あなたの世界を広げてくれる。差別や偏見じゃなくて、あなたとわたし、っていう考え方を忘れないで。そのためには、世界中の人と話せる英語って、最強だから、これからも続けてね」
と、いうようなこと。
これはいまでも、だれにでも伝えたい僕の信条であり、そしてこれから教育に携わるすべての人に覚えていてほしいことです。あらゆる宗教やセクシュアリティや国籍で子どもを判断する前に、あなたとわたし、になってほしい。そうなれば救われること子どもってきっとたくさんいるんです。

言霊も、あるなあって改めて思います。
これは子どもに対しても、友人でも自分自身でも家族でも。
これはちょっとしたライフハックですが、「すみません」という言葉を発するとき、「これ英語だったらExcuse me以外で言うだろうな」ってときは「ありがとう」を言うようにしていて。何かしてもらったときに「すみません」じゃなくて、「お手数おかけしました、ありがとうございました」って言ってみるとか。言葉の力は無限大だから、後ろよりは前を向いた言葉を使うように意識すること。それだけで人生ってちょっとだけ朗らかになっていくなと感じています。
どんなに些細なことでもいい、言葉を前向きなものに…前じゃなくて正面でもいいから、せめて後ろ向きにならないように。それって結構大事だなって。
すこしまえの深夜のタイムラインが2012年ごろみたいでとても楽しかったんだけど、僕みたいに「発話することで言霊が倍増する」人と、「心に強く秘めることでその言霊の強さが増す」人と、どっちもあるんだなと。僕はとにかく、謙遜でもなんでもなく本当にバカだし、たぶん僕のASDの特徴でもあると思うんだけど、感情を言葉にせずにいられない。我慢ができないんですよ。不安も恐怖も感動も好意も、すぐに言葉にしないと苦しくなってしまう。理論的とたまに行っていただくことがあるし、自分でもそうあろうと心掛けているけれども、やっぱり感情的な人間なんです。僕って。最近ドリフェス!にはまって、自分がいかに感情を振り回す人間か思い出しました。理論派気取ってたけど。いいとか悪いとかそういうことではなく、一度何かに夢中になったときに、自分の感情にあらがえない。お金の計算も寝食も忘れてそればっかりしちゃうんです。それこそ僕のハネウマライダーにはブレーキもハンドルもないの。後ろにだれかを乗せる予定もないしね、幸か不幸か。
…話がそれたね。とにかくなんでもすぐに言葉にする。それが僕にとっての「言霊を強める」ための方法。文字化でも音声化でもいいんだけど。
言霊というのは、武器なんです。
英語が自分の世界を広める武器であるように、自分自身の可能性を伸ばすための武器なんです。最近そう思うんだけど。
楽しいもうれしいもたくさん言いたいし、すきなものには好きとたくさん言いたい。僕はそのために、この(自分的には)悪くないと思える声をもって生まれてきたんだろうと、もう何度も何度も書いたけれど、改めてそう思うのです。
好きな人にも子供にも家族にも、自分にも。

この言霊をまだ上手に使いきれていないなって思うことは多いし、自分に対してもどかしくなったりイライラしたりすることも本当にたくさんあるけれど、何が言いたいかって2017年も3か月ちゃんと死なずにいた自分が偉くて感動してるって話です。笑

そういえば今年の始まりに、ぼんやり、ちいさなことをたくさん目標として書き出したんです。
3か月で本を10冊読む、は達成できなかった。ドリフェスしてた。
映画を5本は見る、はクリアした。最近友人が映画に誘ってくれるのがめっちゃありがたいんだよね。あと目標体重までやせたよ。
あと「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」「いただきます」「ごちそうさま」を言い忘れない、とか。これはクリアした。一定の時間からはノンカフェインってのもクリア。アルコールは結婚式と納会でしか飲んでないからクリア。水筒を持参するようにもなった。でも10分前行動とか遅刻しないとかそういうのはできてないな。
もともと僕って強迫性人格なので(そのくせ遅刻魔だけど)、自分にとって無理がなくて、前向きになれるような目標をちまちま書いておくのってけっこういいみたい。「いただきます」をちゃんと言う、みたいな、ほんとそういう些細な、でも大事なやつ。
そういう小さいことをまた丁寧に考えて、数えて、つぎの3か月もひとつずつクリアできることを増やしながら死なずに生きていけたらいいなと思う、今日この頃なのでした。

3月は、結構勝負の月だったの。実はね。誕生日だったのもあるけど、そうじゃなくて僕のなかで。こなしたり、やっつけたり、乗り越えたり、ステージを上げたりしないといけないことがたくさんあった。でもそれがぜんぶ、いちおうけりがつきました。ひとつのことだけまだ終わっていないけれど、僕が能動的に行動を起こすことはもうない。だからとにかく、自分おつかれさま。


最強にヤマもオチも意味もない文章でした。