人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

対峙

「自分が好きですか」

 

という問いにぶつかるたび、僕はうまく言葉を見つけられずにいた。

卑怯な答えかもしれないけれど、自分のことを好きか嫌いかと二択で答えるのはとても困難で、だから「とりあえず歯並びは好き」みたいな、ざっくりとしたものでその場をしのいでいた。好きなところだってあるけれど…、という以外にうまく言葉は出ない。

それでふと気付いたのだけれど、僕はそもそもの自己肯定感が低い。ほとんど致命的に低い、と人に言われたことがある程度にはそう見えるようだし、まぁ低いだろうと言う自覚もある。好き嫌いについて判断する以前の段階なのだ。自分のことが嫌いかどうか、判断する前の、もっとずっと低いレベル。

 

最近ちょっとしたことで、「君にとっての幸せが一体どこにあったのか ひとつくらいは増やせてあげられたかな」というポルノグラフィティの黄昏ロマンスの歌詞を噛みしめたことがあった。ちょっと穏やかな心の陽だまりのような部分の話だ。そこで僕は考えた、君にとっての幸せっていったいなんなんだろうかと。

他人の幸福について勝手に考え、ましてそれを定義づけるなんて愚かしいほど傲慢である、もちろんそんなことは不可能である、それはわかっているのだけれど、この場でだけは見逃してほしい。

その人の、そして僕の身の回りの大切なひとたちの幸福について考えれば考えるほど、自分の入る余地はないのだと思い知らされた。僕が幸せの枷になることさえあれど、それを後押しすることはきっと不可能だ。人によっては後ずさりさせてしまう可能性すら考えられた。というか、そのほうがずっとずっとリアルだった。

僕は別に極端にネガティブにものを考えるわけではなく、しようと思いさえすれば比較的リアリスティックに、あるいはドライにものを思考できるほうだと自負している。もちろん感情論からは逃れられないけれど。

それでも、この手でつくりだせる幸福なんてものは、きっとわずかもない。自分が誰かに与えられる肯定感も、きっとカスのようなものなんだろう。

 

って考えを、わざわざ人の見えるところに書くことで、僕はどうしたいんだろうか。別に慰められたいわけじゃない(あまりにも無意味だ)し、同情なんかもっとされたくないのだけれど。

ただ己の無価値さをかみしめている。僕の審美眼は僕を美とはみなさないようだ。

死ねない理由があることに、すこしだけ安堵している。ただ僕は許されたい。それだけなんじゃないかと、自分では推察する。

 

僕はあまりにも醜いし、あまりにも無能だし、とてもじゃないが生産的だなんて言えないし、自己防衛のために何人を殴り殺してきたのか、もう数えるのをやめてしまった。