人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

言葉は嘘をつくか

ずっといじめられっ子だった。

いまでこそ、人懐っこいにはじまり果てにはチャラいだのタラシだの、いろんなことを言われるけれど、僕はそもそもいじめられっ子だ。(ちなみに、チャラいと言われると全力で否定するけれど、怒っているわけでも悲しいわけでもない。人見知りと言われるよりはるかに嬉しい)
小学生とか中学生のときのことだから、もちろんいま思えば大したことじゃない。自殺を試みたこともない。漠然と消えてしまいたい気持ちだけ抱えて、なんとなくつらい日々だったことしか覚えていない。
それでも幸い大切な友人たちが身の回りにいてくれたおかげで、あのころにはいい思い出もたくさんある。成人ならとうにしたいまでも、弾丸で旅行に行ったり、冬の夜中に花火をしたりする友人が地元にいるのは幸福なことだ。

いじめられっ子といじめっ子をわけるものは、ほんとうにその場の運でしかない。僕はいじめは被害者にも原因があるという説を唱える大人をことごとく信用しない。彼らは運よくいじめられずに生きてこられただけなのに、その運の良さを自分の当然だと思っているのだ。あらゆる「弱者にも原因がある」という説を耳にするたびに、運が良かっただけのくせのヤツが何を批判しているのかと思う。なぜなら努力と実力と結果がイコールだと思っていないからだ。残念ながら努力は報われると言える人生を歩んできていない。

でも、努力は必ずしも報われるものではないからこそ、人はときに頑張りすぎるのだろう。たとえ報われなかったとしても、過去の自分を恨まずに済むだけの努力という地点はあるのだ。それは諦めというよりは納得に近い。

なんの話だっけ。

いじめられっ子だったころ、友人たちと会えない時間に僕を励ましてくれたのは活字だった。読むしかできなかったし、書くことしかできなかった。インターネットに住み着き始めたのもそのころだ。
僕の思考のベースはあのころからずっと活字で、活字を発するための指先と声帯とは脳が直結している。だから会話のペースも速い(自覚はある)。

「言葉は嘘をつく」という文言を見たことがある。言葉は嘘をつく、なかなか哲学的な響きだ。だが、言葉は嘘を本当につくだろうか?いや、嘘をつくのは言葉ではなく僕らだ。言葉によって狭められたり、奪われることはなくもない。それは使い方の問題だ。だけれど、嘘はどうか。いや、僕らが言葉に嘘をつかせるのだ、と思う。
逆に言えば、嘘をつかせることもできる。きみに、どこかに、僕自身に。嘘の言葉をかけて、穏やかにすますことは、そんなに難しいことじゃない。
誠実であろうとするなら、ときには嘘をつく必要もある。理想に思いをはせるなら、騙す必要もある。生きるために嘘をつく必要だってあるだろう。僕にはあった。
でも、忘れてはいけないし、勘違いしてはいけないのだ。嘘をつくのは言葉でなくて僕ら自身だ。責任は僕らにある。
そして言葉はいつだって言霊として僕らを呪う。僕らの嘘をついた精神と、そのために使われた言葉たちはすこし切り離されているからだ。そして言葉たちはいつも勝手に(まるで僕らのように勝手に)現実を呼び寄せる。言葉の持つ力を容赦なくふるって、僕らを呪おうとする。

視覚も聴覚も音声も、その呪いとつねに戦っている。あとは僕らが、その呪いにかけられるか、かけるか、それこそがきっと問題だ。