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人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

自分の嫌いなところ

おいしいものをたらふく食べたあとは、いつもゆるい自己嫌悪で殺されそうになる。

自分の体型が憎いと何度も思っているのに、食べることをコントロールできない自分が中途半端で最悪だなって思います。

 

えーと、そんなことが書きたいんじゃない。

 

書こうと思って立ち向かっているのに、さっきからずっと目の奥が熱い。涙が出そうな息苦しさがある。半年前ならこれかパニック発作の予兆で、速攻で薬を飲んだだろう。いまは水分をとりながら腹式呼吸で意識をうまく落ち着かせることができるようになってきた(それでも出るときは発作は出るし、それは仕方がないことなのだけれど)。

僕は僕が嫌いだ。なにものにもなれず、社会的に不可欠な人間でもなく、大切にしてくれる友人や家族はいるけれど、そのひとたちのために長く丁寧に生きていこうという覚悟もできない、自分が心底嫌いだ。

働けもしない癖に金がかかることばかりし、医療費が払えなくなり親に援助をしてもらう自分が嫌いだ。他人の好意にすぐに甘えるくせに他人からの好意を信じられない自分も、せっかく褒めてもらえてもそれを否定する自分も、自分の容姿も、顔面も体系もとにかく何もかもが壮絶に嫌いだ。

それでも僕はまだ死ねないし(30歳になったら死ぬ)、自分のエゴを捨てることもできない。欲も抑えられない。他人を傷つけてばかりで、努力もできず中途半端で、そのくせ承認欲求だけは強い。

そんなこと思ってても書くなよって自分でも思うし、そう思うのに公開する自分のメンタルなんか最低もいいところだ。

 

ここまで書いて、あまりにもつらかったので水を飲んできた。もうすぐ睡眠薬を飲むのでできれば安定剤は飲みたくない。

文章なんか、ほとんど自傷のために書いている。

 

親友が子供を産んだ。

おそらく出産は彼女の人生プランにおいては想定外だったのだと思う。「自分一人だけの時間」「子育てをせずに済む時間」への未練は確かにある、と話してくれた。それでも、自分の子どもが心の底からいとおしく、愛しているし、後悔はしていない。そしてこれからの人生はその子のためにも、あらたな選択と決断を繰り返していかなければならないのだと話す彼女の顔はもう親の顔で、僕は僕の知らないその表情の美しさに息を飲んだ。決断というのは、すなわち「責任を負う」ことだ。その大小関係なくつらいものだと僕は思う。そのつらさを子供のために引き受けようというその強さを前に、僕はただ自分自身を恥じた。

上述のように、僕は自分が嫌いだ。そんな自分のために選択に責任を負うのも、さらには他人の決断に加担してしまうことも、言葉を選ばずに言うならば、恐怖でしかない。

それでも僕の目の前には「決めるべきこと」「選ぶべきこと」がたくさんある。

 

僕がいま抱えているうつ病という病気がいつ治るのか、何をもって治ると定義するのか、僕自身にもよくわからない。

病気になる前と後では体質がそもそも違う。性格も思考も違うだろう。それを単純に「元に戻す」ことが治すことなのか?それとも新たな性格として受け入れ「共存」できるようになることがゴールなのか?未知だ。でもそれすらも、結局自分で決めなければならない。自分で責任を負わなければならない。それに恐怖を感じずにいられ得るはずもない。

どこまでが自分の性格で、どこからか自分の症状なのか、どこまでならば薬で変更ができ、どこからは自分自身で変わらなければならないのか。それをきちんと把握するために、最近は精神科の心理検査を複数受けている。

 

正直に言おう。結果が出るのが怖い。

 

自分のこの過呼吸も、つらさも、他人へのいら立ちも、嘔吐もなにもかも、ただの「自分の甘え」「自分の弱さ」なのではないかと、僕はいまだに怯えている。自分に甘い自分、努力ができない自分をこれだけ嫌悪しているのに、なにひとつ乗り越えられていないからだ。

 

それでも僕はこれから自分のことをきっとたくさん決断しなければならないのだろう。

過去を訂正することができたなら。自分の憧れていた職業も、生き方も、何もかも今は遠い。こんなはずじゃなかったと嘆くのは嫌いだけれど、それをせずにはいられない自分が憎い。

 

いい加減苦しい。薬を飲んで眠ろう。夢など見ずに、朝まで死んだように眠れますように。

 

それでも今すぐに自殺をせずに済むのは、30歳までは必ず生きると約束したからだ。