人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

理由なんてない

僕は美しいものが好きです。ほとんど目がないと言ってもいい。人間のことだけじゃない、容姿のことだけじゃない。声や生き様や選択、視線や指先の動き。絵画も小説も景色も光も暗い場所も、それに対して僕が美しいと思うかどうか。思わなければ僕はそれに意味を見出すことができない。価値は内在しない。君の価値もアレの価値も僕が勝手に見出す。僕が勝手に美しいと思う。美しいということを理由に敬意を持ち、それを愛する。一方的に。それはきっとエゴなのだけれど、僕は極めつけのエゴイストだからしかたない。自分がエゴイストであることはもうひっくり返しようのない事実で、僕はこのままでいいのだとすら思っている。

 

久しぶりに心底美しいなあと思ったことがあった。出会いと言い換えてもいいかもしれない。

僕は、プリザーブドフラワーよりはすぐに散ってしまう桜が好きだし、余白に意味がある絵が好きだし、行間が雄弁な文章が好きだ。それに美しさを感じる。極めて東洋的な観念だと自覚している。

 

僕はどうして∠RECEIVERに「なりたい」と思うのか。

憧れているだけじゃない。大切な曲というだけではない。それそのものになりたいと思う。広大な海をボーダレスに泳ぐ魚になって、そこで∠RECEIVERになりたいと思う。願う。切実にそれを祈っている。

でもどうして?と思う日はある。

僕は30歳で死ぬのだ。なのに目標なんてあったって。なのになりたいものなんてあったって。どうして目指しているんだっけ。

 

でも答えは簡単なのだ。「なりたいから」だ。それ以上でもそれ以下でもない。僕にとって∠RECEIVERはその先があるものではない。そうなったからといって、そこから何かにさらに進化できるものではない(たぶん)。できるのだとしたらそこに到達してからわかるものだろう。

「あれになりたい」

「∠RECEIVERになりたい」

そう自分に強く誓った日のことを僕はまだ覚えている。きっと忘れることはない。その日に感じたことがすべてだ。理由はない、ただそうなりたいだけなのだ。

それは生まれ変わったら…とかではなく、現世で達成されなければならない。

 

キーワードはひねり出せている。必要なことも、するべき努力も、きっと見えている。いま立っているこの場所から動け。たとえそれが逃げだとしても、動いたことに意味がある。前進に意味がある。まずは発声を変えろ。行動を変えろ。それは思考の変化に結びつく。自分の思考を徹底的に自分で染めろ。思考は行動と自分を変える。わかりきっている。わかりきっているのなら、実践すればいい。進めばいい動けばいい。自分で自分を洗脳しろ。動け。僕は泳ぎ続ける魚のまま死ぬ日を待つ。

 

誰かからの嫌悪も、誰かへの恨みも、ぜんぶ海が抱きとめてくれる。だから大丈夫。いつか忘れて許すことができる日が必ずくる。僕はただ身を委ねていればいい。流されるべきは一時の感情ではない。僕の中にある核に従え。

 

いつか自分の審美眼が、自分を認める日が来ますように。