人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

鱈々を観てきたよ

 

舞台「鱈々」を観てきました。

以下、たぶんとくにネタバレはないけどもし観る予定があるなら観た後に読んだほうがいいと思う感想文です。なんていうかネタバレって難しいよね。すくなくとも核心をついてはいないです。僕の解釈だけ。

 

 

*****

 

90年代の韓国で発表された作品ということもあって、僕にはとても皮肉で、「おまえは何者だ?」と突きつけられたように感じた。
箱や倉庫をどう比喩として感じるかによって、どれだけ皮肉で、どれだけ自分と見つめ合わせようとする作品と感じるかは違うと思う。
100人観れば100通りの解釈が生まれる舞台だという前評判を聞いていたのだけれど、それにとても納得した。観る人が観たらきっとおそろしく退屈な舞台だと思う。
僕にはとても刺激的だった。なんなら、とてもキツかった。

変化を恐れるか。変化に飛び込むか。
どこまでが自分で、どこからが他人か。
誰が何が家族か。
僕らは実はナンバリングされた箱のように、どこからか輸送され、またどこからへと運ばれていくだけなのではないか。
「名も知らぬ所有者様」によって飼いならされ、人格を無意識に形成され、おのれの思考を奪われたただの「大衆」と成り下がってはいないか。
僕らは狭い倉庫の中で一生を終えるのか?

「度胸」はホンモノか?
それは覚悟を伴うものか?
その場しのぎの度胸は腹をくくったと言えるのか?
度胸があることとはすなわち「弱い自分から目をそらす」ことなのか?
自分の弱さと向き合うことは「まごころ」か「逃げ」か?

たくさんの疑問が詰まっていて、「僕は観劇した者の責任としてこれらの問いに立ち向かう必要がある」そんなふうに思わされた。

僕は山本裕典さん扮するキームの「度胸」は、限りなく「無責任」と紙一重だと思った。あれは度胸というよりは「逃げるための口実」と「勢い」だったように思える。
逆に藤原竜也さん扮するジャーンの言う「まごころ」は美しいなと思った。仕事を誠実にこなし、それに生きがいを感じること。それ自体は素晴らしいことだ。ただ彼は「外の世界」というものを恐れすぎていた。箱の中に住むことが当然すぎて、その外や、外で起きる出来事をひたすら恐れていた。それを「まごころを持って仕事を全うすること」で気づかないふりをしたように思えた。
考えることをやめること。勢いに任せること。それはときには必要なことかもしれない。だけれど、それが常にベストだとは僕には思えない。思考停止ほど怖いものはない。

僕の持つ度胸は。僕の持つまごころは、どうだ?弱さや口実の隠れ蓑になってはいないか?思わず自省したほどだ。
前向きに聞こえる言葉、強さのように聞こえる言葉ほど、内面がどれだけ伴うか、あるいはどれだけ伴わせることができるかが勝負なのだ。自分としっかりと対峙したときに、「自分の弱点」を受け入れ、進化させられるか?
受け取りようによってはキームの最後の決断は彼の成長とも取れる。でも僕には、勢いだけで飛び出した彼は、きっと次の倉庫でも同じ思いをするだろうと思えてならない。

あとなによりも藤原竜也さん扮するジャーンが切なくて切なくて…。僕はジャーンはゲイあるいはバイセクシュアルで、山本裕典さん扮するキームに(ジャーンの自覚の有無はわからないが)恋心を抱いているのだと解釈した。
藤原竜也さんが大好きで何度も舞台で観ているけれど、あんなに声が優しくて甘かったのはいつぶりだろう…?もしかしたら僕が観た中では初めてかもしれない。あんなに不安定で情けなくて、でも優しくて甘くてどうしようもない声であんな台詞を言うなんて、それだけで苦しかった…。
韓国は日本よりも強烈にホモフォビアがはびこっていると聞いたことがあって、もし現在でもそうなのだとしたら90年代の韓国ではジャーンは彼の気持ちを願うことはおろか、自覚することさえできなかったのかもしれない。本人が自覚することすら叶わなかった底知れぬ愛情を、彼は永遠に罪のように抱えて生き続けるのかな、と思うと、とてもかなしい。まさしく「諦めて恋心よ、青い期待は私を切り裂くだけ」だ。寂しい…大丈夫…寂しい、と、恋だと自覚することすらできないまま想い続けることは、きっと罪のような気が遠くなる行為だろう。

なんていうか結論としては藤原竜也最高、である。あと山本裕典腕ほっっそ。である。