人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

パノラマシスター

 

2013年にpanorama×42ツアーのシスターのストリングス付きの音源を聴きながら書いたものの再掲です。ツイッターのアンケの参考までに。笑

 

 

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なぜ世界が今日も動いているのか、それだけがどうしても理解できなかった。僕の世界はあの日、音さえも立ててくれないままあっけなく崩れていったのに。どうして今日も僕は目覚めて、市場は人であふれて、道には笑い声がおきているのかわからなかった。いつだって僕のわからないことや知りたいことを教えてくれるのはあの人だったから、今の僕に知りたいことを調べるための手段なんてないも同然だった。
眠るためのベッドの置かれた屋根のある部屋ならあったけれど、そこが自分の家だとはどうしても思えなかった。そこに住んでいる人が家族だとも思えなかった。誰かととる食事は美味しくなかった。一人で食べるパンは味がしなかった。みんながほめる街並みも、美しいなんて思えなかった。レンガ造りの建物と赤っぽい橋を遠くに見つめながら、僕は今日もすこし古ぼけたベンチに座る。
本当なら、ここにいれば声が聞こえてくるはずだった。崩れていく前の僕の世界ならば。
「おとなり、いいかな?」
歌うみたいにやわらかく響く声。視界に入る鮮烈な赤い日傘。
「いつもここで本を読んでいるでしょう?」
人目につかない場所だった。そのベンチは高いレンガの陰になっていたし、雑草も乱暴に生えていた。あちらにある橋や大通りのほうがみんなは好きみたいで、だから僕はここに座っていた。どうしてここに人がいるのだろう。
あなたは微笑んで、自分も本が好きなのになかなか話の合う友人がいないのだといった。前に一度たまたま見かけてから、いつか声をかけてみたいなと思っていたの、と。手元に光る時計と、それにかかる長い袖のシャツが、明らかに僕とは住む世界が違う人なのだということを物語っていた。
「ディッケンズでしょう?昨日読んだばかりで、なんて偶然かと思って」
「僕は、三回目くらいだけどね。あまり多く、本持ってるわけじゃないし」
「その、三回目っていうのは多いほうなの?それとも、特に気に入っているわけではない?」
「回数でいったら、多いほうではないかな。でも、とても気に入っているよ」
本当に?とぱっと笑ったあなたの顔が、とても眩しかった。どうして眩しいのかわからなかった。思わず目を細める。それからあなたは嬉しそうにディッケンズについて話しはじめた。僕はときどき相槌を打って、同意して、いくつかの意見を付け加えた。クリスマス・キャロルを素敵だと思うのに、デヴィッド・コパーフィールドを読んだことがないなんて。
「うちにあるかなあ。探すの、すこし大変かもしれない」
「もしかして、とても大きな書斎があるおうちに住んでいたりするの?」
僕が尋ねるとあなたはひとつ苦笑いをして、うんとだけ答えた。見ればわかるよ。服装も、言葉遣いも、指先のしぐさひとつ取ったって、僕らと同じそれじゃない。こんな時間にひとりで出歩いたりしていいのかと聞いたら、その白い人差し指を立てて唇に押し当てた。
「ねえ、明日もここに来るでしょう?」
「…どうして」
「よかったらその、デヴィッド・コパーフィールド、貸してもらえないかな。読んだらすぐに返すから」
こちらを見つめる視線に僕の瞳を重ねて、眼が茶色がかっているのだと気づく。
「いいよ」
僕の答えににっこりと笑うその顔がまた眩しくて、僕はまた眼をそらした。ありがとうという声は、やっぱり歌うようだった。
「ねえ見て、夕焼けがとてもきれい」
そう示されて、下に落としていた視線をあげた。夕焼けは、僕の目には痛いほど眩しかった。この眩しさはさっきも感じたはずだ。
「きれい」
あなたがまた言う。この眩しさのことをきれいと呼ぶのなら、あなたが笑った顔もとてもきれいだった。そう思って、でも何も言わなかった。
その翌日も、味がしないパンを無理やりに飲み込んで、それからディッケンズを持ってあのベンチへと急ぐ。いつものように建物はぼんやりと赤く、口の中の水分は先程のパンに奪われたまま戻ってきていない。
足を少し早めてその場所へ着いたとき、あなたがバイオリンを弾いていた。
僕は最初それがなんなのかわからなかった。あとであなたがそう教えてくれるまで、バイオリンというのは僕にとって小説の中に出てくるふしぎな楽器のひとつだった。
「……すごい」
「えっ!?…なあんだ、驚いた…来てたんだね、聞いてたの?もしかして。恥ずかしいなあ」
「すごい…すごいね」
僕の間が抜けたコメントにあなたは噴き出して、それから笑って「ありがとう」と言った。その微笑みと声がとても眩しくて、きのうの夕焼けを思い出した。きれい、という形容詞は、きっとこういうときに使うんだろう。
はい、と本をベンチに置く。あなたはまた笑って本を手に取る。それをかばんにしまうと、こんどはそのバイオリンまでしまってしまおうとした。
「待って」
くるりと振り向いたあなたの目を視線でとらえた。あんなに必死に誰かの目を見つめたのは、たぶんはじめてだった。
「もっと聞きたい」
あの日聞いたあの旋律を、そのあと何度も聞かせてもらったあのメロディを、僕はいまだにくちずさむことができる。いつものベンチに座っていつの間にか閉じていた目を開けると、もう太陽がどこか遠くの血を照らすために姿を消していくところだった。あなたのいない世界の時間はデタラメだ。あっと驚くほど速くすぎるのに、ため息が何度もつけるほどに間延びしている。あんなに眩しかった夕焼けも、あなたがいないと眩しくない。あなたがいなくなってから、きれいだという形容詞を一度も使っていない。一緒にみたはずの夕陽も建物もあの白い花でさえも、もう眩しくないのだ。結局のところ、僕にとってただ唯一のまぶしさの正体はあなただったんだろう。ねえ、今更気づいた僕を、馬鹿だと笑いに迎えに来てくれないかな。赤い日傘をさしておいでよ。
あたりを見回して赤い日傘を探す。立ち上がってくるりと回って、あなたが見つからないという何百回目かの事実にうちひしがれる。座りなおして、もういちど目を閉じた。
いくつかの季節を超えても、僕らのひっそりとした読書仲間の関係は続いていた。本の感想を求めあったり、本を貸し合ったりした。夕焼けを見てきれいだと言い合ったりもした。はじめてあのベンチで一緒にパンをかじったとき、食事とはこうも胸があたたかくなる行為なのかと驚いたことは、今でも忘れられない。あなたはいろんなことを知っていて、日々姿を変える月の呼び名や星の名前、道行く人々の手にしている新聞の内容や、パンにつけるとおいしいジャムのことを教えてくれた。僕は知らないことだらけだった。でも、野に咲く花の蜜が甘いことや、よく吠える犬からうまく逃げる方法なんかは僕のほうが知っていた。あなたは僕がそれらを言うたびに、まるで心の底から感動したような声を出して僕の頭をなでた。すごいね、と言われるたびに、僕の心臓がいつもより大きな音を出した。
ある日、道端で鮮やかに咲く白い花を見つけた。あなたになんとなく似ていたから一輪摘んで持って行った。「きれい」と喜ぶあなたのほうが、花よりもずっと眩しくて、僕は毎回、一輪ずつあなたに手渡した。
ねえ、またあの花が咲く季節がやってきたよ。
おかしいと思ったのは、季節が巡ってもあなたの服装が長袖のままだったからだ。暑くて、僕は服なんてあるいは必要ないほどだったのに、あなたは手首の腕時計にかかる丈の服をまだ着ていた。
「暑くないの」
「暑くはない、けれど、この季節の太陽は眩しすぎてしまってだめだね」
「眩しすぎる?」
「だから、陰になっているこの場所がとても好き」
あのとき、どうしてもっと深く聞かなかったのだろう。
それからあなたの白い指先は血の気を失って、花が咲くみたいだった頬も色味を失っていった。「どうして」と聞いても聞いても、「なんでもない」としか答えてくれなかった。貸した本が返ってくるペースが遅くなって、毎日だったひそやかな読書会が二日に一度になった。僕が理由を問い詰めようとするとあなたはバイオリンを弾いた。それを聞いてしまうと僕は聞き惚れてしまって、なんにも言えなくなる。わかってそうしていたのだから、あなたはずるい人だ。
「ねえ、もしもここに君しかいなくなったらどうする?」
突然聞かれた時のことは、教えてほしい、どうしたら忘れられるのだろう。
「どうするって、あなたは?」
「いなくなってしまうとしたら」
「そんなの、いやだ」
「いや、じゃなくって」
「いやだ。いなくならないでしょう?」
「わからないよ、そんなこと。だから聞いて。ねえ、もしここに君しかいなくなってしまったとして、そうしたらね――」
お願いね、と微笑んだあなたの顔色はとても悪かった。でもとてもとてもきれいで、僕はきれいなのにとても悲しくなった。あなたが僕の頬に触れている理由もはじめはわからなくて、熱いような冷たいような涙を拭い去ってくれているのだと気づいたときにはあなたも泣いていた。いやな予感が当たらないことだけを、切実に望んでいた。
ねえ見える?今はもう、涙なんて出ないよ。
「またあした」をはじめて守ってもらえなかった日から数日して、黒い服を着た大きな男がその場所へやってきた。男は名乗らなかったし、何も言わなかった。ただ僕の姿を確認すると、ひとこと…それまはるで死刑宣告みたいだった。
「昨日の早朝でした。ちょうど日の出る時間でした」
そう告げると僕に、あの白い花を押し花にして栞にしたものを手渡した。あの方の部屋には何十個もこれがありますよと付け加えて。僕はその日に返すつもりだった本をその男に渡してしまった。
僕はまた眼を開ける。夕焼けが最も美しい時間はすこしすぎて暗くなり始めていた。今日も世界はこうしてまわっている。ギリリギリリと世界がきしんでいる音がする。みんなには、聞こえないのだろうか。僕は立ち上がって、手のひらに握りしめていた白い花を風に飛ばした。黄昏と一緒に飛んでいけばいい。そしてあの人を探し出して、もう一度僕の前に…もう一度だけでいいんだ。ただひとこと、言いそびれてしまっているだけなんだよ。あなたの弾くメロディが、あなたの貸してくれた本が、あなたの声が、あなたのすべてが、僕にありとあらゆるはじめてをくれたのに、僕は何にも言えないままだった。
すべてを手放したはずの手のひらを見ると、汗でぺたりと花びらが一枚残されたままだった。ねえ、ひとことだけなんだよ。ただ、ありがとう、と…その一言だけあなたに言えていたなら。その後悔も一緒に、手のひらに残っている。

「わからないよ、そんなこと。だから聞いて。ねえ、もしここに君しかいなくなってしまったとして、そうしたらね、気が向いたときにでいい。年に一度でもいい、いや一度でもいい。その白い花で、元気にしていると教えてほしい。きっとどこかで見ているから」

 

 

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シスターの美しさに敬意をこめて。