人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ポルノグラフィティのルーズの歌詞の美しさ〜行間を深読みするおばけの覚え書き

クソ長いので結論だけ先に言うと「ポルノグラフィティはいいぞ」です。

 

ルーズ、というポルノグラフィティの歌詞をもとにした小説を書け、と言われたら、僕は「恋人だった人の葬儀の帰りのタクシーの中で、夜景を眺めながら頰に涙をつたわせるひと」の話を書くだろう。

この歌詞でよく注目されるのが、「首元の小さなタトゥー」という表現。恋愛の歌詞として素直に読むならば、浮気相手につけられたキスマークと解釈するのがわかりやすく、素直だ。だけれどもそれをキスマーク、と描かないところにこそ新藤晴一という作詞家の凄さはある。キスマークかもしれないし、本当にタトゥーなのかもしれないし、あるいは病気の注射痕なのかもしれない、ファンタジーな解釈をするなら吸血鬼に吸われた痕跡かもしれない。
僕はこの首元の小さなタトゥーというのを、「傷跡」だと思っている。自傷の痕跡かもしれないし、病気による青あざかもしれない。タトゥーだから、青あざのほうが説得力があるか。とにかくなんらかのかたちで、その人の生と死に繋がるキズがそこにはあるのではないか、と思う。

ではなぜそう思うのか。それは冒頭の歌詞にある「かたちあるものは「いつか」「なぜか」脆く壊れてしまうという そんなルーズな仕掛けで世界はできてる」が大きな理由だ。
あのタトゥーがキスマークの暗喩であるならば、浮気や失恋の歌詞だ。でも、あの新藤晴一が、恋愛に絡むものを「かたちあるもの」と呼ぶだろうか?むしろ「かたちないもの」とするのではないだろうか。
そこで僕の脳裏によぎるのは「別れ話をしよう」の大サビだ。彼にとって「かたちあるもの」とは、「その唇やその髪やその乳房」であって、それは恋愛のうえで結果として手に入れられる(と錯覚できる)ものに過ぎない。「恋愛」そのものには形はないのではないだろうか。
「いつか」「なぜか」脆く壊れてしまう「かたちあるもの」、それは人間なのではないか?と、僕は思い至ってしまったのだ。

キラキラと輝く夜景が幼稚な幻みたいに見えるタクシーの車内。バタン、と感情なく閉じた扉の音で、先程までの葬儀の悲しみを断ち切ろうとする。
けれど、そんなことはできない。かたちあるもの、すなわち人間は、いつか、なぜか死んでしまう。病気であれ、自死であれ、事故であれ、寿命であれ。いつか、なぜか、脆く壊れていく。それがこの世界の仕掛け。
入院して眠るその人の手を握り、あなたの声が聞こえずとも、それでもお互いの姿は見えていたと思っていた。ときたま反応してくれるだけで分かり合えた気がして、それ以上は望まなかった。最初に命に関わるものの兆候(自傷の跡か、あざか、なにか)が出たときから気づいていたけれど、それを問い詰められなかった。あの場で声をかけて、それはなに、と聞けていたら、なにか運命は変えられたのだろうか。
ふたりのこころに秘めた「かたちのない深い愛」。

相手の人は病気の青あざを首元で隠していたのかもしれない。あるいはその青あざは病気ではなく誰かから受けた暴力だったのかもしれない。暴力を苦にしたの、暴力が原因かはともかく、死には結びつく。あるいは歌詞の主人公と決して結ばれない恋をしていて、それを気に病んで自死してしまったのかもしれない。半ばの愛を語るフレーズを繰り返せば、心中に失敗した生き残りが、なぜ僕は壊れられなかったのか、と思う歌にも読める。

ルーズの中で美しさを極めたと思うのが「星が全部ほら 空から落ちる」というフレーズだ。
「ほら」というのは、相手の注意を引くときに使うフレーズだ。「ほら!あれを見て!」と。自分の驚きを伴うことも多い。だから「ほら」という呼びかけの言葉は、だいたい文頭にくる。
だけれど、この歌詞の中では「星が全部『ほら』空から落ちる」のだ。まるで主人公が、星が落ちることを知っているみたいだ、と僕は思う。「ほら!見て!星が落ちていくよ!」であれば、主人公も知らない出来事だろう。だけれど主人公は、ほら、と相手の(あるいは、誰かの)注意を引くべきタイミングをわかっていた。
「見て、ほら、落ちたよ」という具合だ。主人公はなんらかの手段で、目の前のかたちあるひとがいつか消えることを知っていたように思えてならない。
そしてなにより、すくなくとも僕の住む地域では、星は夏より冬の方が美しい。通年で星の美しい季節なんかないんだけど。どちらかというと「星空さえも引きずり落として這いつくばせた街」なのだけれど。でも、夜景がキラキラと光るような街なら、きっと同じじゃないのかと思う。落ちるほどの星を見上げることができるのは、きっとその季節が冬だからだ。寒い時期なら、長袖でどんな傷跡も隠すことができる。店内でマフラーを外してしまう首筋をのぞけば。

僕にはこの星が、主人公の涙の暗喩のような気もするし、本当に象徴としての星のような気もする。ただとにかく、歪んで捻れ混ざって溶けていく世界の中で、なんどもかたちづくられ、喪失と獲得が繰り返されるのは生と死なのではないかと思う。

キスマークを隠す人と、それに気付く人の、なんらかの恋の終わりの歌。そうとも読めるし、そう読んでも美しい。だけれど、これは空から落ちてはまたつくられる人間の命、生と死のように、ひとつの「かたちある」人間の喪失として読むことも許された歌詞なんじゃないかと思うのだ。

なにが言いたいかってここまで聞き手に解釈を委ね、そして委ねるだけの余白こそが美しい歌詞を書くことができる新藤晴一が、悔しいことにとんでもなく好きだという話なのだ。僕がこんな深読みするようになったのも、そもそも新藤さんの歌詞のせいだし。
そしてその余白を自分の解釈で埋めてしまうことなく、見事なまでに主人公としてストーリーテラーになってくれる岡野昭仁さんの歌唱力と表現力は、バケモノ他ならない。こんな歌詞を渡されたら、自分なりの解釈込めてナルシスティックに歌いたくならないのか?でも彼はそれをしない。
ポルノグラフィティというバンドについて僕が圧倒的に信頼しているのは、彼らが「聞き手にすべてを委ねてくれる」ところだ。歌詞も音楽も、岡野さんの歌いかたも。答えはあるようでいて、実はない。その余白に自分を重ねて自分の歌にもできるし、解釈を楽しむこともできるし、考えることよりもそこにある楽曲と歌声の美しさに浸ることもできる。10人いれば10通り以上の楽しみ方ができる曲を、彼らは創る。それが僕がポルノグラフィティを敬愛する理由だ。

という、ルーズに関するつらつらとした覚え書きでした。