人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー 19/04/11

つい先日「趣味は仕事と彼氏」と知人に言われて、違う惑星の人だなあと言葉を失ってしまったんだけど、僕も届いたBlu-rayを開くこともできないまま硬直してしまうほど好きなものがあって(ドリフェス!の話だ)、そういう趣味に「依存」して「他人本位」で生きているのかなあ?と考えた。
まあ、ある側面で言えば「他人本位」で「依存した」生き方なのかもしれない。そう言われたらぐうの音もでない。でも僕は、その「他人から受けるもの」に対して自分が「能動的」なんじゃないかという雑な仮説を立てた。なんでかというと、僕は「好き!」ということを伝えるためにあらゆるものを惜しまないから。人でもものでもコンテンツでもいいんだけど、好きなものには好きと言いたいしそれを伝えたい。エゴだ。僕はエゴイストで、広辞苑のエゴイストの例に掲載されてもいいくらいだと自負している。
「僕のことは忘れてもいい、忘れてほしい、でも僕が振り回した言霊の花束が、いつかあなたの力になって、救いますように」
僕はよく上記のようなことを言うのだけど、これはひどいエゴだなあと思う。特にひどいのは「僕のことなんか忘れてもいい」という一文だ。そこで一瞬、身を引いて、自分を消したように見せるからだ。これは本当についさっき、15分前くらいに、やってることがポルノの晴一と一緒だと気づいた。
「あなたが望むのならこの身など いつでも差し出していい
降り注ぐ火の粉の盾になろう
ただそこに一握り残った僕の想いを
すくい上げて心の隅に置いて」
かの有名なアゲハ蝶の一節だ。
「あなたが望むのならこの身などいつでも差し出していい」という献身的な自己犠牲を見せたあと、それでも「僕を忘れないであなたの心の隅に残して」と訴えるのは、あるいはもっと直球で訴えられるエゴよりも、重さが増すような気がする。
僕もそうだ。僕だって、「僕のことなど忘れてくれていい」と言いながら、「でもいつか僕の言霊が花束になって」と呪っている。献身的な愛、と見せかけて、ただの自分の欲求なのだ。
ひとにもそうだし、推しにもそうだ。推しなんか僕のことを認知さえしないのに、それでも「いつか僕が応援したことが、推しのためになったらいいなあ」と思ってしまう。払った金が筆頭だけど、ファンレターも、出した祝い花もぜんぶ。それが、わかんないけど、推しの次の仕事や、新規ファンの獲得につながればいいなあ、と思う。一方的に応援させてもらってるくせに、こんなエゴを捨てられないのだ。
エゴと、能動的であることは、ある面においてよく似ている。放たれた何かを受け取る、それを抱きしめる、という行為だって、能動的だからこそできることだ。
だから、僕はこの「他人から受けたもの」を受けて自分が発露する「エゴ」を、ひとつの自分のリアリティみたいなものとして呼びたい。他人本位、と見せかけて、これは僕が引き起こす僕の愛であり、僕のエゴなのだ。
だからといって、趣味が彼氏の人と同じ惑星に住めるかはわからないし、あのひとはとても他人本位で依存的なのかもしれない。他人本位であろうが自分本位であろうがそこに貴賎はないが、僕は、自分が能動的なほうが好きだ。

……と、ここまで書いて、茹だる頭のためにコンビニで買ったジュースを飲んでいたら、友人が待ち合わせ場所に来た。何を書いたのかよくわからないので推敲はしない。友人と平成納めのプリクラを撮った。楽しかった。頭がごちゃごちゃなのでしゃべり倒してしまった。ごめん。
今年は桜が長く咲いていた。いや知らんけどそんな気がする。桜は死の象徴みたいな花だ。あの無数の花びらに、砂にのめり込むようにして死んでいく、溺死を連想する。
緩やかな頭痛はいつもこういうときにやってくる。おやすみなさい。明日はどっちだ、わかんねーな。