人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

仮想敵、あるいは自分の鏡としての太宰治と、自分のもたついた足跡について

映画「人間失格」を見た。いわずもがな、太宰が題材の。太宰の作品は、まあ、ひとしきり読んだと思う。好きとか嫌いはさておき、かなり惹かれる。駆け込み訴えなんて、天才が天啓で描いたとしか思えない。もの思ふ葦に載っている「兵法」は、僕が考えたり書いたりするときの1つのルールだ。
僕は絵ならゴッホが好きだし作家なら太宰が好きだ。そういう趣味なんだと思う。限りない同族嫌悪と、それを上回る憧れ、のようなもの。きっとこの国に30万人はいる「自称・太宰治の生まれ変わり」あるいは「自称・太宰治の理解者」のひとりだ。実際、人間が恐ろしくてたまらない。すごくこわい。道化でやり過ごす。人間に評価されない道化など無価値なのだと自分に迫るがゆえに勝手に自分で苦しんでいる。なにより、恐ろしいけれど、人間が好きだ。
僕がまるで口癖のように謝るのは、誰かに許されたいからだ。自分で許せないから。なんの罪を犯したのかは知らないけれど、とにかく許されたい。ここでは僕の恋愛遍歴みたいな話はしないけれど、それを求めるがゆえに崩したものが多すぎる。自分の罪は「洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。」……これは女生徒の引用。僕は少女ではないが、かなしいことに体は雌だ。

うつ病で体調を崩してから、本を読む機会が減った。
昔から付き合いのある友人各位でこそ、僕を読書好きと認識してくれていると思うけれど、最近はめっきり読んでいない。僕はもともと内省的な本が好きだし、読んだあと爽やかな気持ちになる本は一握りしか知らない。うつ病どん底のタイミングに、爽やかな気持ちになるのも、内省的になるのも怖かった。ものを考えるのが怖かった。思考に隙ができたら、その瞬間から自分が自分に自殺を脅迫し始める。何回かは実行した(のも、知っている友人がいるかもしれない)。だから考えずに済むように、無心になれることを探した。スマホにそれはたくさんあって、それこそたくさんの「気楽なアプリ」に僕は救われたし、いっときは恐怖と発作で乗れなかった電車にも、それに没入していれば電車に乗れるようになった。
習慣というのは簡単なもので、それから本を読む機会はとんと減った。気楽なアプリが画面を埋め尽くす、とは、晴一さんの歌詞だけれど、本当にその通りだ。
そこからドリフェス!にはまって、ほとんど気が狂ってしまって、本棚を飾り棚に変えた。400冊くらいあった本が、半分以下になった。
そんなに苦しくないエッセイや、爽やかな気持ちになる小説は、たまに読むけれど。

もともとあんまり地に足がついている体質じゃない。ついているのかもしれないけれど、肝心の足が不安定だ。なにより、僕自身に「地に足をつけていたい」という強烈な意思がない。いまでこそ「自殺しない」という人生に移行したけれど、去年の今頃はまだ30歳の誕生日に死ぬつもりだったくらいだから、自分の人生みたいなものが、長期的なスパンであんまり見えていない。四捨五入したら30歳になるのに何を言ってるんだ?ってかんじなんだけど、本当にそうなのでしかたない。
言い訳をつけるなら、一回倒れて体質がまるきり変わった。低気圧で頭痛がするなんてまずなかった。加齢と言われたらそうかもしれないけれど、妊娠出産も経ずにここまで体質が変わるのは、やっぱり病気になり、診断を受けてから数年、1日たりとも欠かさず薬を飲んでいる影響はあるんだと思う。

僕は、「自殺しない」という方向に生き方の舵を取った僕自身と、まだあんまり向き合えていない。
そのつど、それなりに考えるし、毎日楽しいこともある。ブログに書き起こしたりもする。仕事は憂鬱だけど、今の職場は恵まれている。だけど、限りなく短命的というか、圧倒的に感情と衝動に揺さぶられて生きている。衝動が強すぎて、自分でも唖然とすることがある。今まではそれでもよかった。だっていざとなったら死んじゃえばいいやと思っていたし、そしたら奨学金はチャラになるし。だけど、それを禁じ手としたら、生きるのが途端に難しい。もともと相当ハードモードなのに。
経済的なこと、自分の家事スキル、実家のこと、親戚のこと、自分自身でつくる家族や友人関係のこと、ぜんぶきちんと考える必要があって、そして、考えるだけじゃなくて「決めて、行動に移す」フェーズに、もう僕はしっかりシフトしないといけない。こんなこともう50回くらい大事な友人に話したと思う。まだ実行に移せてないのかよと叱られそうだし叱ってほしい。
ならばどうする、を、自分にいっぱい突きつけている。
仕事に行くのを嫌がって朝から吐いている場合じゃない。いやなんていうか、それはもうしょうがないんだけど、そういう体質として、きちんと生きていくには。社会人として、生活者として。それから、それこそ初めて人間失格を読んでうなされたあの日の僕に、叱られないためには。あの少年に「こっちも戦ってんだよ」と今の僕は言えなくて、言う資格はなくて、だから、あの日の僕に胸を張れるようになるには。

考えたり決めたりするには毎日はせわしなくて、かなしくて、ちょっとしんどいし、太宰の映画を見ればこんなことも書く。僕は、まぁ、なんというか、限りなく「太宰側」の人間なのだ。ただ、太宰と違うのは、まわりにいるひとが、僕に破滅を迫らないこと、だと思う。地に足がつかず、足に力が入らない僕の手を取り、車椅子を差し出し、食事を与えてくれる。僕が太宰にならなかった最大の理由だと思う。一歩間違ったら、女の人を狂わせて死んでたと思うし、我ながらその才能あると思う。道化として花を差し出す才能に自信がある。
だけれど、道化としてではなくて、自分として、自分の手で言葉で育てた花を差し出したい人がいる。
ならばそろそろ、僕は自分で立ち、自分で食事を作れるようにならないといけない。そのためにどうしたらいい、と思うに、まずは自分の部屋を片付けようと思う。1つ強大な断捨離の意思でもって。
それから、金の使い方を改め笑、すこしまた、本を読もうと思う。本を読むというのは、僕の性質そのものだし、僕を僕たりえるために必要なものだ。最近それを忘れていただけで。

僕は本当はずっと∠RECEIVERの本質をわかっていなかったのだな、と思う。本質というか、前提。∠RECEIVERであるために、強く持たなければいけないもの、意思、耳、目、そういうもの。そういうものを持っていても、足場が崩れちゃダメだから。
社会人として、そして毎日を生活する者として。働いて、稼いで、そのお金で生活して、貯金して、家事も自分でして、自立して……。そういう「毎日を生きる」ことを、サバイブすることと呼ぶんだ。それができて、はじめて、見えるものがあるはずなのに。僕はいつも土台をスルーして見栄ばかり張ってしまう。毎日を闘ってサバイブして、そのうえではじめて手に入るものの存在。それが∠RECEIVERなんだなと、いまさらきづいた。ならば、さて。気づくのは簡単、動くのは難関。それを習慣に落とし込んで、日常にするのはもっと困難。
いま頭の中で、ポルノのワンモアタイムが鳴っている。「ならばどうする?」。


これはさらにどうでもいい話だけれど、僕のコミュ力って道化なんだなって改めて思った。はたしてあれをコミュ力と呼ぶのかはさておき。恥の多い生涯だ。現時点ですでに。天使みたいないい子だと、誰かが思ってくれたらいいけど、あれは太宰の願望だろう。僕もそうであるように。

 

さて、好きな人と話したいが、そのまえに、家族とご飯だ。