人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

拝啓この手紙 ダイアリー22/08/15

なんだか頭が重くて、それは気圧もあるのだけれど最近考えていることをうまく文章にしていないからで、正直僕のいう「うまく文章にできない」は「書くための手を動かすのがめんどくさい」にすぎないので、いま重い(物理的にはとても軽い)スマホを上げてこれを書いています。
好きな人に書く手紙なら数日かけるけれど、自分のブログなんかねえ。感情のログでしかないから。書けないなんて疲れてるか眠いかのどっちかですよ。

とはいえ書きたいことがありすぎて、かといって削るとわけがわからなくなるのは頭で文章を組み立てているときからわかっているんです。さてどうやってこの脳内の泥を吐き出そうかと思っていた今日、ちょうど自担が毎月1回めちゃ長ブログを書く日で、それはファンに向けて書いてあって、まるで手紙のようで。
月によって自担のブログは自己暗示のようだったり、自分を奮い立たせるための決意表明だったりするのだけれど、今月はとくに「手紙のようだな」と思ったので、なら僕も誰かにあてて書こうと思っています。とはいえ実際にこんな……脳内の吐瀉物書き出したみたいなブログを手紙にして送りつけたら問題なので、もしここから先を読んでくださる方がいたら脳内にアンジェラアキの「手紙」とか流しておいてください。内容はもうそれはそれはネガティブなので、読まなくていいです。


まずは報告から。生きています。
さっくりと割愛しますが、僕の人生は30歳の誕生日で終わるはずでした。すなわち今年の3/5が命日のはずでした。本気でそう思っていた。周りがどう考えていたのかはさておき。何度かほんとうにすきなひとに「30過ぎても死なないでおこうかな」と言ったことこそあれ(そして生きろと言われたことこそあれ)、なんだかんだ死ぬ気でいました。
というか死ぬと思ってた。自動的に目が覚めなくなると思っていました。
なぜ30歳なのかと言われたら、それは僕の初恋にさかのぼって「もし30歳になっても」という約束をしたことに起因します。そしてそれが叶えられなければ死ぬんだと思っていました。(約束した相手は今もとても元気で、最近の連絡の限り、すくなくとも幸せではあるようです。それが僕の救い)
これ、なんて説明したらいいのかわからない。自分でも「死ぬと思っていた」んです。一種の強烈な自己暗示、あるいは自分にかけた呪いに近かったのかな。
事故に遭うとかそういうのではなく、ただ、30歳にならないと思っていた。その日は来ないと思っていたし、想像できなかった。
いや、想像できなかったは嘘かな。考えてはいたし、実際そんなポックリ死ねるわけないってわかってはいたのだけれど、わかっていても、でも、死ぬと思っていた。死ぬと思わないと生きていられなかった。
人生の目標だとか、なりたいものだとか、そういうのはあります。概念だけれど、僕にも僕の目指す姿や理想はある。何度もブログにも書いているとおり。できれば恋人とも一緒に歳を重ねたいし、それを友人に祝われたりしたい。そういう感情と、30歳で死ぬ、という僕の予感(あるいは自己暗示)は、ひとつも、ほんとうにひとつも、矛盾していなかったんです。死ぬし、だって。そのつもりだし、その予定だし。

まぁ死にませんよね。笑
だから今年の3/5(誕生日です)は変な気持ちでした。正直あまり覚えていません。恋人と連絡を取ったことは覚えている。僕が30歳になっても死んでないことを最初に伝えるべき人だと思ったから。
もし目が覚めてしまったら飲むつもりで準備していた市販薬やら頓服の抗うつ剤やら、喉を焼くような酒のボトルたちとか、ロープとタオルとか、部屋に準備しておいたものを眺めて、何もしなかった、できなかった、どっちかはよくわかりません。とりあえず、本当に僕は「死にぞこなった」んです。

で、3/6からの人生。
リスタートなんて気取ろうかとも思ったし、一度なんらかの……どうするかの実際問題はさておき……何か自分の中でつけたかった「区切り」もよくわからないまま、なんというか、生きています。

ごく控えめに言ってすごくつらい。
控えめに言ってすごくつらいので、控えなければ言葉を絶するというか、beyond descriptionってかんじです。描写できうる想像のはるかかなた遠く、つらい。

今までってなんだかんだ、死ぬし、って思ってたんです。
死ねば終わるから。その日はくるから。受験勉強みたいなものですよね。いつか終わるからどうにかなっていたこと、目を瞑ったり耐えたりしていたこと、それらに対してどう向き合うべきか、答えを失いました。
だって僕の人生に待つものは「まぁいうて30歳で死ぬしな」という、妙な確信だったから。
それがない今、本当につらい。みんななんでこんななか生きていられるの?と素直に思うし、素直に怖くもある。

これ仮に、僕がうつ病でなければどうだったんだろう?生きていることに対するしんどさはもう少し減っていたかな、と考えはするけれど、想像できないし、現状がうつ病なので、考えても無駄だし。
(新卒社会人でパワハラをうけうつ病、診断先で発達障害が発覚、次に入った会社では業務過多とモラハラにやられて退職、現在うつ病発達障害として求職中です。エッ、私の仕事運、なさすぎ?)

でも毎日、とにかくつらい。こわい。生きているのが。明日がくることが。恐ろしくこわい。
それは生きていくことに終わりが見えないから。人生は、生命は、受験勉強みたいに終わりが明確じゃないから。終わらないものって、とてもこわいでしょう。僕にとっては、とてもこわいんです。

いまは求職してて、資格取るべく学校通ってて、それで就職できるのかなとか、できたところで一生働くのかなとか、一生ってどのくらいなんだろうとか。正直、学生としての生活が終わって会社員になってから、まぁ、心療内科にかかる程度にはつらい思いをしてきたので……こわいんですよね。何がどうなるかわからないことが。

これは昔からそうで、あるいはもしかしたら僕の自閉傾向なのかもしれないけれど、とにかく「一寸先は闇」が怖いんです。
現実問題、生きていたら一寸先は常に闇。今僕が文字を打っているこの指が、1秒後に突き指する可能性は誰も否定できない。そんなことありえない、と未来を断ずることは不可能。悪魔の証明みたいなもの。
だから、新しい環境に行くとき(入学とか、進級とか、就職とか、なんならはじめて行く医者とか、食事屋さんとか)は、もうあらゆることを頭の中でこねくり回して、考えられる最悪の事態をさらに最悪にしておきます。
入社したらその日に上司にぶん殴られる可能性がゼロって言えます?いや、実際ほぼゼロですけど、未来のことを断言するなんて無理だから。僕にとっては「ありえる未来」。だから殴られたらどうするか考えておく。個室になったらとりあえずボイレコまわせるようにスマホの位置を確認しておくんです。
初めて行く医者がすげえ嫌なやつだったりする可能性もあるし。薬出してもらえない可能性もある。ご飯食べにお店へ入ったら売り切れパレードで、カニしか残ってないかもしれない(僕はカニを食べると全身に蕁麻疹が出ます)。
自分で書いていてもバカバカしいけれど、そういうことを考えずにいられない。こういうことはいくらでも考えられるし、思考のブレーキぶっ壊れてて過呼吸になるまで止まらないのに、前向きな思考はほとんどできません。
いや、まぁ、ポルノのライブまでは死なないでおこう、くらいのことはある。でもそれって、僕の寿命までは続かないから。
だから、ものごとの初日、少なくとも慣れるまでの数週間は、ずっと吐きそうになってるんです。なってるというか、吐くこともある。
自覚あるのは中学生くらいから。当時のブログに残ってると思う。とにかく「何が起きるかわからない」ことが怖くて、だから「あした」が、「次の授業」がずっと怖かった。今でも怖いです。特に新しいことに関わらなければならない時期は。

でも、死ぬと思ってるあいだは、当社比ですけど、まだいくぶんマジだったんです。死ぬのが早くなるだけなので。
ところがいざ、今年の誕生日をすぎてしまった僕には、死ぬという選択肢がかぎりなく薄いんですよね。

ずっとずっと……30歳になったら、の口約束、20歳のときだったと思うので、ずっと、30歳になったら死ぬと思って生きてきたし、自己暗示もかけていたので、いざそれを過ぎたら、選択肢から「死ぬ」がなくなったんです。ポカンと。
完全になくなったわけじゃなくて、今でも死にてえ……とはなります。なるけれど、所詮自分は死ねないことがわかってる「死にてえ」しか出ないんです。ペラッとした感情で驚くくらい。あんなに死ぬとおもっていたのにね。
これは良いことなのか悪いことなのか、正直分かりません。言えるのは、死のうが死ぬまいが、今この瞬間も、明日が怖いということ。そしてこの「怖い」を、持て余し続けていること。
寿命尽きるまでこれに怯えてないといけないのかな、と思うと、気が遠くなるし、それこそもう誰かに僕を強制終了してほしい。もう終わりにしよう。そう思うんですけど、溜めていた薬もロープも捨ててしまった。酒は亡くなった祖父母の写真の前に置いたら、家族が数日で飲んでしまった。死ぬつもりなんて簡単に消えちゃうんですね。

なんの結論もないです。山もオチも意味もない。ただ、こわい。生きていくのが。それゆえつらい。終わりが見えないことが。
ただ毎日、好きな人と安定した生活を送って、穏やかに老後を過ごせたら良い……と頭で思っても、それに至るまでの経費とか、時間とか、考え出したら。人生やめたくなる。こわいよ。30歳にもなって情けないですよね、マジでこんな人生の意義みたいな自問自答は高校生で終わらせておけって話なんですよ。思春期に結論出しとけっていう。でもいま考えている。そして結論が出ないまま、たぶん明日も僕は死なない(断定ではないけど)。
こうやって毎日を「今日も死ななかった」で過ごしていくのかなと思うと、それがいちばんこわい。


ここまで一気に書いて、いったん呼吸を整えたら、謎の冷や汗かいててちょっと笑っちゃった。そんでトイレ行ってきた。ちょっとだけチルアウトを飲んだ。書くの再開。
もうぜんぜん手紙っぽくなくなってきたね。


ここからはますます取り止めのない話。「頑張るって何」って話。
ほんとは「攻撃は最大の防御、という弱さ」って話もしたかったんだけどそこまで辿り着かなそうだな。その話はつっくんというマイディアフレンドのラジオごっこで話をさせてもらったときから自分の中でろくろ回してたことなので、また今度書きます。
つっくんは本当にいいやつです。
そのラジオごっこの中で、僕の文章について「純度が高いよね」って言ってくれたことがすごく嬉しかった。冷静に何かを記録するより、いまこの瞬間の昂りを残しておきたい派なので。感情の純度が高い文章を書けているのなら、それは数少ない自分を認められる要素だから。
ラジオごっこはこちらから▽ つっくんがいいやつです。
https://twitter.com/i/spaces/1lPKqmbkrmLKb

これも前にも書いたかもしれないけれど、文章っていちど自分と切り離せるからすごく気楽で。自分を褒めてもらってもごめんなさいごめんなさいってなるけれど、文章を褒めてもらったらありがとうと言える。

褒められるのは苦手ではない、むしろドヤッと受け取ることもわりとできる。でもそれは僕が作ったものでも、僕の手を離れたものである場合のみ。文章とか、部活で作った作品とか。まだ自分の体のどこかと肉で繋がっているようなものを褒められると、本当にどうしていいかわからない。嬉しいし感謝するしもっと褒めてもらいたいのに、素直に120%の純度でそれを受け取るじぶんの余力、体力、器みたいなものがなくて不甲斐なくなる。褒め言葉、受け取るけれど、そのひとの最大限の愛を受け止めきれているのかな、っていう不安に駆られることはある。

死ぬはずだった話と褒める話で混ざるけれど、僕は自分以外の人類はみんな「生きているだけで偉い」と思っている。確信している。僕の出会うか、出会ったとしても相性がいいかはさておき、とにかくみんな生きていたら偉い。人を傷つけなければもっと偉い。自分と人に優しくしてたらほぼ偉人。だけど僕は、僕だけは、認められない。「生きているだけでみんな偉い(※僕除く)」になってしまう。だって僕は生きているだけじゃ偉くないからね。
これは本当に認知の歪みだし、自分でもなんとかしたほうがいい気はしているんだけれど、どうにもならない。

じゃあ僕はどうすれば偉いのかと言われたら、何したってダメなんですよ。僕は僕にだけ求めるハードルが高い。それは僕に期待をしているからではなくて、僕がダメだから。最初から最後まで、ダメだから。ダメなものはずっとダメなんですよね。いや書いてて笑うくらい認知歪んでるな。

こどものころから褒めれるのはいつも「頑張ってえらいね」だった。それは周囲の教育でもあったと思う。僕は運動神経が絶望的に悪くて、特に体を動かすことが求められる幼少期においては、頑張っても何も残せなかったから。絵も下手だし。文章はもう少し大きくなってからだし。だから、親や教師は、まず挑戦したことや、頑張ったことを評価してくれた。たとえ50m走でビリでも、頑張ったから、偉かったねって。テストで満点を取っても、満点を取るまで頑張れて偉かったねって。
理想的な育てられ方だと思う。結果が出せないと叱り倒されるなんてことはなく、過程をしっかり見て認めてくれる人に恵まれていた。だから僕の認知が歪んでなければ、僕はたぶんまっすぐ頑張り屋さんに育ったんだと思う。
だけど僕はダメだった。頑張らない自分に価値はないと思うようになった。同時に、すこしずつ成長してできないことややりたくないことが増えるたび、頑張れない自分は価値以前の話だと思うようになった。
記憶が正しければ、どんなに頑張ってもできない、ってことが増えてきた頃から、僕の自傷傾向もはじまっている。

頑張らなくてもいい、そこにいてくれるだけでいいなんて嘘だ、と思う。
僕以外の人は、そこにいるだけでいい。生きてさえいてくれればなんとでもなる。まして前を向いてくれるなら、全力であなたを愛する。だけれど、僕は、僕だけは、生きているだけではただの動く粗大ゴミでしかない。

「頑張る」という言葉、呪いなんだよなあ。と思う。頑張れと言われるのは嬉しいし、頑張ったねと言われるのも嬉しい。人から寄せられる言葉としての「頑張れ」にはいつだって感謝する。いまでも大事にしている言葉がたくさんある。
けれど、自分に課す「頑張り」あるいは「努力」が、自分にはもうわからない。わからないというか……どうしたら自分を認められるのか、わからない。頑張れば認められるとは思うけれど、どれだけ頑張ればいいのだろう。

繰り返すけれど、あなたは、これを読んでくれている奇特なあなたは、もう、それだけで僕から全幅の感謝とハグを受けてほしい。ありがとう。今日も生きていてくれて。

頑張れなくても、努力できなくても、それでも生きていていいんだって、思えない。明日が怖くない日がくるんだって、いまいち信じきれてない。

ねむい……。
続きの手紙はまた今度。あしたがくるのがこわい、あさってはもっとこわい。でも時間は止まらないし死ねもしないので。
人生、果てなさすぎて、こわい。

推敲してないけど(だめじゃん)、このまま載せちゃおう。これを書いておくことがいつか自分をほんの少しでも支えてくれるといいけど。
昨晩、不眠症を発揮して眠れなかったから、今夜は寝るぞ。もう眠い。