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人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

前に書いたやつ

ずいぶん前に好きな人に向けて書いたものです。エセ短編小説です。載せたくなったので載せます。お手柔らかに。

 

▽▽▽▽▽▽

 

「天使って、いると思う?」
長い髪を風に揺らめかせながら彼女が尋ねた。あざやかな星空としんとした冬の空気が、僕らを素直にする。深夜のパーティを僕の手を取り突然抜け出してきた彼女の指先はつめたい。
穏やかな紺のパーティドレスは彼女にとても似合っているけれど、なんだか闇に溶けてしまいそうで怖くなる。
「天使?」
「そう、天使」
急にどうしたのかとも思ったけれど、ここでそれを聞くのはきっと野暮だろう。
「案外、いるんじゃないかと思うよ」
「どうして?」
「…そのほうがロマンチックだろ?」
彼女がふふと笑った。それから続ける。
パウル・クレーという画家の、天使の絵を見たことがあるの」
「どんな絵?」
「いろんな天使がいるの。忘れっぽい天使、おませな天使、鈴をつけた天使。天使というよりむしろ鳥、なんていうのもいたりするのだけれど、あの絵がわたしにはなんだか懐かしいの」
「懐かしい?」
「そう、なんだか地元へ帰ったときのような、両親のことを想うような気持ちになる」
ゆらゆらと髪はまだ揺れている。ビルの横の、すこしふるいベンチに座る彼女はとても絵になった。
「それに、天使とはいえいつもニコニコしているわけじゃないのって、なんだかとてもいいなって。忘れっぽいとかおませだとか。きっとわたしたちとは異なるようで、すこし似ているんだと思う。人間はたいがいちっぽけだけれど、天使だってそれは変わらないのかなって。悩みのない、煩悩のない場所なんてどこにもないのかなって…」
彼女はそう言って目を伏せた。
僕は彼女の過去を知らない。だからこの言葉に込められた真意はわからない。
「煩悩のない場所か」
「うん」
「煩悩がなければ平和だろうけど、きっとそこはさぞ退屈だろうとも思えるけど」
僕の言葉に彼女は笑う。確かにそうかもね、と言いながら、風に揺れる髪を撫でて落ち着かせようとする。
「でも、そうだね……たとえば煩悩がなければ、嘘をついたり、人を傷つけたり、傷つけられたりしなくてすむじゃない」
それは確かにそうだね、と僕も頷いて微笑み返す。彼女は恐ろしいほど優しい。そこなしの優しさと感受性で、いつも胸を痛めているようにさえ見える。だからこんなことをそもそも考えつくのだろうな、と思える。
「その画家の絵のなかに、嘘つきな天使とかはいるの?」
「…たしか、いないはずだけれど」
そうなんだ、と答える。彼女はそのままゆるやかに空気を閉じ、口を閉じた。
「嘘をついて、人を傷つけて、そんな煩悩にまみれて、それでもなお天使は天使であり続け、人は人であり続けるとしたら、その差はどこにあるんだろう」
僕がつぶやくと、彼女は答えた。
「そう思うと、案外、天使も人も変わらないのかもしれない」
「僕らの身近にも、天使が紛れているかもしれない」
「かもしれない」
彼女はなんだかすこし楽しそうに微笑む。まるでそうだったらいいなとでも言うように。僕はその微笑みを堪能して、それから言う。
「だとしたら、その天使はきっと君のような人なんだろうね」
「え、わたし?」
頷く。彼女は訝しげな顔をする。どうして?と尋ねてくる。
「僕にとっての君が天使であるように」
訝しげな顔が、いっきに口を開いたすこし間抜けな顔になる。人の言葉の裏の意味をむりに考えようとしたり、必要以上に言葉を要求したりもしない、素直な彼女の耳には僕の言葉がダイレクトに届いているはずだ。
「…その、クレーの絵には、嘘つきじゃなくて泣き虫の天使はいないの?」
彼女は逡巡し、答えた。
「……泣き虫じゃなくて、泣いている天使ならいるけれど」
「なら、きっと、その天使のモデルは君だろうね」
「…なにそれーっ」
膨れた顔をしてそう言った後、ふと笑った。
僕は彼女の過去を知らない。彼女の出生も、過ごしてきた時間も知らない。ただ彼女の美しさだけを知っている。今この瞬間の彼女のやさしさを知っている。だから僕は真剣にこう思うのだ。
「きっと、君が人にまぎれこんだ天使なんだよ」
だからどうか、紺のドレスが闇に溶けて、そのまま君が消えてしまいませんように。天へ帰りませんように。そうひそかに願っていると、彼女はふしぎそうな、恥ずかしそうな顔をして、なに言ってるの、と言った。
ふれた指先は、さきほどよりはいくらかあたたかかった。