人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー 2018/12/19

こんなものを書き始めたくらいだから、べつにそんなに忙しくはない。
暇でもない。毎日仕事はあるし、だいたい水曜と金曜に設定される何かの締め切りとにらめっこしている。だいたい事務職なんて向いてないよなと思う。やらなくてすむならやりたくはないけれど、働かざる者食うべからずだし、働かざる者ライブと舞台に行けずである。それは困る。
毎朝満員電車に乗ったり降りたり、過呼吸になったりしながらどうにか出勤し、書類を出し、向いてねえなと嘆きながらやんややんやとと仕事をして、だいたい1時間か2時間くらいの残業で帰る。電車が混み始める前に、と心がけると、必然的に同僚よりも職場の滞在時間が短く、何を思われているのかは知らない。知ったことでもない。
おとといくらいから妙に手が汗ばんでむくんでいる。スマホがうまく反応しないのは不便だ。そういえば先週くらいから指先に発疹みたいなのものができている。年内に皮膚科に行く余裕はもうなさそうだ。

やらなければいけないこと、やりたいこと、人と約束している時間、支払いの締め切り、仕事の書類、あしたまでに買わないといけないもの。そういうものをリスト化して見える状態にすると比較的スムーズにいろんなことを終えられるだとか、頭の中に「あーそのうちやらなきゃ」という小さなタスクを積み重ねることが脳と精神の負荷になるだとか、そんなことはわかっていて、わかっているのだけれど、行動に移す余力がない。というか、踏み込むのが面倒だ。動き始めてしまえば5秒で終わることなのに、動き始めるのに5日間かかる。5分ではない。5日間だ。本当にそういう人種なので、きっちりしっかりとした大人からはだいたい嫌われる。
自分が嫌われる話のネタは尽きないけれど、たとえば嫌われる大原則である、自分が空気が読めないとか人との距離が近いだとかというのを、いまの職場に異動してきて感じている。いままではそれを許容してくれる人に恵まれていたのだなあ、あるいはそれを許せない人はみんな離れていったのだろうと思う。でも離れたり逃げたりできないのが職場で、やれ、人間関係なんてだいたい面倒だ。

たぶんいま、微熱があって、だからこんなものを、帰りの電車で書きなぐっている。頭痛がするのは気圧のせいではない気がする。
とっちらかった頭の中から、ゴミだけでも掃き出さないと、整頓にこぎつけない。

今年を振り返ろうと思って、ことし最初のイベントは…と思い出したのが、僕の青春たるドリフェス!の風間圭吾バースデーティーパーティだった。そう考えたら今年は本当に長かったなあ、濃かったなあ、とひとつずつ思い出しながら、あのバースデーパーティーが去年、2017年の3月だと気づいた。ドリフェス!を追いかけていた2年間が、僕にとっては人生という名の分厚い本における、大きな「章」になったのだろう。だから、去年とか今年とか、あんまりよくわからない。今月のあたま、2018年12月2日に好きな人と会って、何年振りでしたっけ、と言われたとき、僕はぽかんとした。半年振りくらいの気持ちだった。ポルノのBEツアーが今年だったことは記憶している、そのあと、ということはまだ転職して一年経っていない。うわあ。それであんな大きいところで負担のでかい仕事させられてるのかよ。すごいな、と自分で言わないとやっていられない。仕事内容や環境はまだしも、人間関係が重たいのはいつだってストレスだ。今年の8月からやたらに(ピーク時期ほどではないけど)増えた抗うつ剤抗不安薬を、一気に飲める自分に思う。たとえば錠剤を飲み込むことが苦手だったら、僕はもっとひどい人生を送っていたかもしれない。どんなことでも自分へ向けるナイフに変えて、自分が立っている場所を自分にとっての地獄に変えることだけやたらうまい僕のことだ。なんと嬉しくない能力か。
友人たちはみな優しい。頑張ってる、えらいよと伝えてくれる。味方になってくれる。ありがたいと心から思う。同時に、職場の人からは認められていない事実がいまは重い。まぁ、ちょっと変わった職場なので、認めるも何も……という側面はあるのだけれど。

相変わらず死にぞこなっている。死にぞこなうと生きるしかないのは、人生がクソゲーたるゆえんだろうと思う。僕は死にたいのだ。現に、死ぬための行動を起こしたのだ。なのになぜ電車で立ち尽くしながら次の乗換駅のことを考えなければならないのだ。勘弁してほしい。生と死のあいだの中間を設けてほしい。そうして上手に死ねるようにしてほしい。
死にぞこなっているというのは別に比喩ではなくて本当だ。3回ミスしていいかげん駅での飛び込み自殺は失敗すると覚えたいところだけれど、朝、出勤しようとぼんやりホームに立っているときに、衝動的にやってくるあの発作のようなものを、コントロールできない。
…どうもピスタチオには心惹かれない(いま、スターバックスの横を通りすぎた。よく考えたら歩きスマホだ)。
ピスタチオには心惹かれないけれど、自分がこの世からいなくなること、明日からこの現実に立つ必要がなくなることには、どうしようもなく心惹かれる。心惹かれる、というか、できるだけ早くそこに到達しなければならないと思う。義務だ。ポルノグラフィティのようにもともと好きなもの、ドリフェス!KUROFUNEのようにここ最近好きになったもの、そういうものを長く愛して1秒でも長く見ていたいと願う気持ちも本物だけれど、それを上回って余りあるほどの自殺願望と、僕の根底を貫く希死念慮が、いつだって僕の隣で穏やかに微笑んでいる。あしたがこない、それに敵う魅力を僕は知らない。
ここ2年は、僕にとってKUROFUNEが、死の魅力に限りなく近いほど僕を狂わせてくれていたから、死にぞこなってしまったんだなあと思う。…ドリフェスの話はまたにしよう。ドリフェスのために転職した話も、回数券買った話も。

先日、両親が2人で話しているとき、父が母に「あいつ(僕である)、もうすぐ30歳だよなあ」と言ったと母から聞いた。そのくせいまだに親のスネをかじっているという文脈だったのか、大きくなったという文脈だったのかは知らない。もしこれが賭けだとしたら僕は前者に賭ける。父の理想だった上品な箱入り娘と、そんな最愛の娘が連れてくる憎き義理の息子なんて話からは程遠い。近づくことがあるのか疑わしい。

30歳になったら死ぬ。いつからだかもう覚えていないくらい、ずっとそう言っていた。僕には僕なりの理由とロマンがあって、それがどれだけ愚かで青臭くても、僕は30歳2日目を迎えることはないと思っていた。確信していた。そしてそれを回避する唯一の方法は、もろもろあってなくなった。30歳で死ぬ必要がなくなった。ひとつの青春の成仏だ。
30歳になったら死ぬ、というのは、30歳までは死なない、ということの裏返しでもあったのだけれど、それがなくなったいま、さて、いつ死のうかと思う。そのくせ死にぞこなってばかりいる。ついに使わないままダメにした、首吊り用に買ったロープの値段が思い出せない。あれを捨てたのは先月だった。部屋に好きな人が来たとき、布団を敷くのに邪魔だった。新しいものを買うのも、面倒だ。前向きに生きる、という選択肢を、うまく選べない。嘘でも前に、という魔法の言葉は、毎朝起きるだけで使い果たしてしまう。

手放すことに強烈に憧れながら、集めることばかりしている。推しのブロマイドもCDも、同じものをバカみたいに持っている。実際にバカなのだ。さっきも同じ柄のアクリルスタンドのために入金をした。集めているというより、僕は僕のための海を作りたいのだと思う。部屋に推しのポスターやらうちわやらを飾っているのも、そうなのだろう。すきなものに飛び込んでそこで溺れたい。幸か不幸か僕は魚だから、うまく泳ぎ回れてしまうけれど、そこで溺死できたらいいのに。

おやすみと言って、そのまま目が覚めないことに憧れてそんなことばかり夢みている。次の誕生日で27歳になるなんて実感がない。僕の体内時計は僕が24歳の時点で止まっている。でも、もうすぐ30にもなるのに、そんな夢をみる愚かさがわからないような、ティーンエイジャーでもない。
いなくなったら悲しんでくれる人がいることもわかるし、死んだら金がかかることもわかっている。自分にそれをまかなうだけの財産がないこともわかる。どうしろっていうんだろう。
何が満たされたら死ぬ気がなくなるのかさえわからないし、そんなものはたぶんないのだと思う。

生まれ落ちた罪、生き残る罰。すきな歌詞だ。だからはやくこの世からふっと消えることを許してほしい。
教えてもらったオランジェットのチョコレート、買って帰ろう。家に着いたら、僕という自分はいなくなって、職場の愚痴を言わない、よく笑う娘に戻る。戻る、あるいは化ける、だろうか。
本物の僕なんてどこにもいないけど。
支離滅裂なことを言っているのも、エゴイスティックきわまりないことも、僕が最低な人間だということも、生きる価値がない人間であることも、わかっていて、こういうことを書くと誰かがそんなことないと言ってくれるのもわかっていて、それでもなお思う。僕はただ、これ以上もう、なにもしたくないだけなのに。そんなことばかり考えている。これはPMSでも鬱の悪化でもなく、シンプルに、僕の思考のベースなのだと思う。ベースの上に立つものが、日によって美しく見えるだけで。嘘でも前にの魔法を、日中にも使える魔法がかかるだけで。