人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

生理中の八つ当たり文章なので読んでも元気にならないと思います下品です

週末はずっと寝ている。
気圧のせい、それから生理痛のせい。
性自認がこれだけ強烈に女性であることを拒んで、Xジェンダーを名乗っているのに、それでも身体はそうはいかない。その事実だけですごく悲しくて、やるせない。僕は女の子ではないのに。
まじで何もできない。ツイッターすら見るのダルい。ラインなんかもってのほかだ。

PMS(月経前症候群)中と生理中(僕の場合は月経困難症)って、食べたものをあらかた吐いてしまうから、今は飲むヨーグルトが美味しい。
言葉を選ばずにあえて下品な言い方をすると、ケツの穴から腕突っ込まれて子宮に爪を立てられてギリギリギリギリされているような痛みだ。気まぐれにめっちゃ殴ってくる。痛いとかそういうのじゃなくてもう意識が遠くなる。振動で内臓全部やられて吐く。そんなかんじ。それが毎月、無条件にやってくる。暴力だ。やめたい。
貧血ではないのに、何度か倒れたことさえある。僕は貧血からはかなり縁遠く、生理中でも献血できるレベルのヘモグロビン値なのだ。単純に痛くてぶっ倒れたってことだ(いずれの場合も周囲の対処に救われた)。先ほどの下品な例えはあながち間違いじゃない。
数年婦人科に通って、定期的に検診も受けているけど子宮も卵巣も異常はない。マジで体質だ。ピルを試したら今度はその副作用でボロボロになってやめて、漢方とかいろんな薬をつづけて、どうにかロキソニンが痛みに対して爪痕を残せるようになってきた。という程度なので、痛みは解決しない。ただロキソニンを飲んで、少し痛みが引いた隙に、睡眠薬を飲んで寝れば、まだマシだ。
最近は上司が生理休暇をくれるのを拒むので、毎月有給で生理の日は休んでいて、そのせいで有給が足りなくて婦人科に行けていなくて困っている。
倒れたときほどの強烈な痛みは、いまは毎月はない。なにより、自分で無理だと判断して仕事を休んだり、食べるものをコントロールできるようになったことが大きいと思う。
でも、毎月やってくる暴力が、嬉しいわけがない。今月は偶然週末とかぶったから仕事も休まずただ耐えて寝て耐えて寝ていられたからマシだったけど、これが平日ど真ん中なら仕事を休むしかないし、さいあく職場で動けなくなって吐きながら早退だ。

痛いだけじゃなくて、精神的にもそれはそれはズタボロになる。「生理前の彼女の機嫌が悪い」なんて口を男ともだちからよく聞くけれど、たぶん精一杯明るくつとめた結果がそれだと思うから、殴られないだけありがたく思ってほしい。僕は生理数日前から勝手に号泣し、勝手に家にあるもので自分を殴り、職場でもう無理だもう無理だと嘔吐したりする。他人に八つ当たりもするし、手当たり次第のものを壊す。(これでも、婦人科に通い始めて劇的に改善した。腕を切らなくなったぶんだいぶマシだ。)

ハンデだな、と思う。
僕は排卵もかなり痛くて、椅子に座っていられなくなる(左右どちらの卵巣から排卵したのか毎月わかるくらい痛い)ので、それも含めたら月に5日はこうやって痛みやゲロ吐いたみたいな底辺情緒を飼いならしながら生きている。
これさえなければな。
別になかったところでこのクソ人生に変わりはないんだろうけど、精神的な余裕は全然違うだろうな。仕事のスケジュールも遊びのキャンセルも、すべてもともとの予定だけじゃなくて生理周期も考えないといけない。書類の締め切り前がPMS期間なら、どんなに忙しくて一週間前には仕上げないと、終わらない。月に5日、本当に無駄にしている感覚が苦しい。僕の人生なのになんで僕の(自認してない)性別に時間を奪われないといけないんだ?生理痛の影響を受けにくい女性、生理がない男性、羨ましい。
羨ましがられても困る人も、逆に生理があることが羨ましい人もいると思う。でもこれは、自分が女じゃないと自認しているのに、女であることを毎月嫌でも痛感させられるうえに、行動が著しく制限されるやつのヤケクソ八つ当たりの文章だから許してほしい。ごめん。
こういう性自認だからなおさらなのか、それはシスジェンダーの女の子に聞いてみないとわからないけれど。
僕は生理のこない身体になりたい。
これ書きながら一回吐いた。明日仕事行くのかよ、行けるのかな。
有意義に使われるはずだった今週末の48時間を返せよ。クソ。動けねえ48時間ってなんだよ。

 

 

脳に降る雨 (声の話をしたかったのに耳の話になった)

僕にとってはじめての「身近な人の死」は、母方の祖母だった。祖母はほんとうに心優しくて、「歩く人徳」みたいな人だった。葬儀は終わるはずの時刻を過ぎても続々と人が訪れてくれて、葬儀場の人がお焼香の省略を頼んでなんとか終わったんだよ、とのちに親戚に聞いた。

でもその日の「映像」的な記憶はほとんどない。その代わりたくさんの人の「声」を覚えている。挨拶しながら泣き崩れる母の声、しおちゃんおいで、とはじめての葬儀場にうろたえる僕を落ち着けてくれたおじちゃんの声。どこか朗々としたお経。耳慣れない木魚の音。座っていた席のずっと後ろのほうからも、ぐすぐすと涙ぐむ知らない人の声が聞こえ続けた。映像的な記憶で覚えているのは遺影くらいなもので、だけどその遺影だって、いまも家に飾ってあるから見慣れてしまっただけなのだと思う。

職場の同僚に、音大卒で、それはそれは歌が上手い人がいる。つい先日、その人が口ずさんだ音楽がかっこよくて、なんだか楽しくなって熱心に聞いたら、一発で主要なメロディを歌えるようになった。その速さに驚かれた。僕は、覚えるのは早いけど、CMソングとかにとりつかれちゃうと大変なんですよ、と笑った(あっちも笑ってくれて安心した)。

好きな人の笑顔だって動きだって、表情だって服装だって、ひとつも忘れたくないと願うけど、そうはいかない。それから、あんな思いはもうしたくない、とか、忘れてしまいたいこともあるけれど、記憶は指パッチンでは消せない。
だから、あの日に戻りたいとか、あの人のことを思い出したい、あるいは忘れたいと試みるとき、僕の手がかりは大きく2つだ。「嗅覚」、それから「音」。

嗅覚は、僕はもともと嗅覚過敏のけがあるので、必然的に記憶に結びつく。香水の匂いで人を思い出したり、旅行先の記憶を思い出すには、現地で買ったものの匂いを嗅ぐのが一番良い方法だ。逆に言えば、忘れたいなら匂いを消していけばいい。その人や物に近い匂いのするものを手放す。
そういう物理的な嗅覚だけではなくて、ドラマで探偵が言うような「事件の匂いがする」的なこともそうだ。こっちはよさそう、あっちは変な匂いがする。そういうのを嗅ぎ分けるのは、僕の中では嗅覚の仕事だ。

もうひとつが、音だ。
耳がいい、とは思わない。ただ、耳から入る情報のシャットダウンが異様に下手だ。
人口密度の高いところで、他人の話し声が複数耳に入ってくると混乱する。耳から入る情報処理がたぶん得意じゃない(情報処理だけで言えば、断然、文字を見て読むのが早い)。
だけど、忘れずに頭の中でリフレインさせることは、とても得意だ。
新しい英語の文章を覚えたいとき、書くよりも、読んだ自分の声を聴くほうが早い。

他人に言われた嫌なことも、文字より声のほうが強烈に残る。そしてこれは匂いのように、意図的に消せない。脳に残ってるから。
どんな些細な言葉でもいいのだけれど、すこしだけ棘の含んだような言葉があると、その音や単語に驚いて、緊張してしまう。その声質が、角ばっていたり、硬かったりすればなおさらだ。
文字に(できればタイプされた文章に)落とし込まれていれば、すこし落ち着いて捉えられるのに。おまけに情報処理が追いつかないから、自分に言われているのか他人宛なのかわからない。文字なら、考える余裕があるのに。
そういう意味では、上司の言葉遣いが悪い職場なんかは最悪極まりない。逆に言えば、ポジティブな単語や褒め言葉をためらいなく発してくれる声が周りに多ければ、それだけで(勝手に)元気になる。

言霊はなんにでも宿る。それは文字でも、声でも、なんにでも。でも僕が過剰に反応してしまうのは、声であり、耳から入るものなんだと思う。

いまでも、うつ病になったきっかけの上司が僕にかけた言葉は鮮明に脳内再生できる。同じくらい、人生の中でかけてもらって嬉しかった言葉も、脳内再生できる。たぶんもうテープすり減ってるけど。笑
いまでも、冒頭に書いた祖母の優しい声はたくさん思い出せる。しおり、と僕を呼んだ声は、僕が知る限りもっとも丸く、もっともやわらかい。いまでも僕の耳の奥に、その時の祖母の体温がある、という気がする。

ときどき、この脳内スピーカーがバグると、自分にとって不都合で、悲しくてどうしようもない「他人の声」ばかり流すようになる。それは自分の声でもあるのかもしれないけど(って晴一さんが歌詞に書いてた)。声は洗脳だから、僕はときどきひとりで勝手にそれに洗脳されて、自暴自棄になったりもする。

言葉にさらに命を宿す、声というのは不思議なものだと思う。文字がこれだけ発達したのに、まだこんなに声でコミュニケーション取るんだもんなあ。

なんかもっと声の話したかったのに耳の話になっちゃった。声の話はまたします(声って魔法だし、名前だし、自信なので)。声のかたちの話もしたい。声ってかたさとかたちでできてると思うから。

僕の耳にたくさんの愛を注ぎ込んでね!勝手に反芻して力にするので。

 

ダイアリー 〜20/01/07〜 身の丈を知らない

身の丈を知る、分をわきまえる。
言葉の意味はわかるけど、そうじゃない部分で「わかりたくねえな」って思う言葉である。

自分の現状を把握するのはめっちゃ大切だと思う。僕の苦手とするところだからなおさら、できる人はすごいなあ、と思う。
心療内科で、これからの仕事のこととか、精神障害者保健福祉手帳のこととか(取ることにしました)について話して、考えて、僕は「自分にはこれで充分」という満足をすることがないタイプなんだろうなあ、と思った、というだけの話なんですけどね。

「身の丈にあった暮らし」みたいな……そういうの……あるじゃないですか?素晴らしいと思うんですよ。自分の現状を知り、自分の足るを知り、それを淡々と実行し、そこで積み上げられた幸せって、きっとかけがえのない愛みたいなもので、素晴らしいんだと思うんです。でもたぶん、僕はそれを(キープしたいけど)振り切って、幸せ全勝を狙いにいっちゃうタイプだな、と思う。
妥協するところだってもちろんある。金だって有限じゃないし体力だって限界がある。「ワガママを全て叶えたい」という意味ではなく。
「自分にはこれこそ相応しい」とさだめ、それを積み上げる素晴らしさより、「収入とか体力とかいろんなものとバランスをとりながら、常に遊んでたい」。
僕は中途半端なおとなだから、自分の両腕が短いことも、収入が少ないことも仕事が不安定なこともわかっているし、だからこそ、いろんなことを控えめして淡々と生活する幸せだって選べる。そういう選択肢もある。でも僕はそれを選びたくない、いまのところ。

ツイッターで友人が、楽しかった!楽しんだみんなが優勝!みたいなツイートの流れで、「ざまぁみろ2020!」と言っていて、胸がスッとした。僕もざまぁみろ!と思った。誰に?何に?そういう特定のものがあるわけではなく、ただ、「幸せだと感じられたこと」に対して、語気を強めるようなその潔さが好きだなあと思った。
自分なんかどうせ、と今でも思うしたぶん明日も思うだろう。昔からずっと思っている。だけど、たまには、そんな鬱状態の自分に、「お前だってこんなに楽しいんだぜ、ざまぁみろ!」と舌を出してやりたいな、と思う。

毎月海外旅行に行く金はないし、徹夜で遊ぶ体力もない。わかっている。だけど、「諦める」とか「身の丈を知る」より、「現状とバランス取りながら、全力で幸せ全勝を狙う」ほうに、生きていけたらいいなあ。いやそれ身の丈を知りながら淡々と幸せな生活したいって言ってるのと同じだよ、と言われたらぐうの音も出ないけど、言葉のチョイスの問題。それすなわち、僕にとっての前進なんだと思う。
自分の誇りを守ること、友人を愛すること、家族を愛すること、ライフワークにしたいこと、目指したい社会。
ぜんぶを叶えられるとはさすがに思ってないけど、でも、まぁやれるだけやったじゃん、と思いたいし、できないだろうって言ってきたやつ(いつかの自分とか)に、ざまぁみろ!って言ってめっちゃ笑顔になれる日がきたらいいなあ、などと。

もうすでに明日の仕事に行きたくないでござる〜〜ってなってるし、明日の朝にはこのぞまあみろの気持ちを見失ってるかもしれないけど。たまにはこういうことも書き残しておきたかった。
どんなかたちであれ、どうにかこうにか幸せになってやるからな。今に見とけよ。

 

 

ダイアリー 〜20/01/05〜 ∠RECEIVERはそこにいる

痛い、という事実の辛さは、逃げられない、にあると思う。かゆい、もそう。無理やり寝てやり過ごす、みたいなことができない。
今朝も、上がる気圧に吐き気をもよおしながら、排卵痛で腹部を押さえながら、これは無理だな、と予定を二件キャンセルした(本当にすみません)。

こうなると、痛いなかで眠れもせず、かといって元気にも動けず、ひたすらぼんやりしていた。ベランダのガラス越しに太陽を浴びながら、ロキソニンを飲みながら。すこしだけソシャゲをして、だるい下腹部を押さえていた。
新卒で入った会社でもあったな、こういう日。排卵痛って当時の僕は上司に言えなくて、痛みで半泣きになりながら仕事をしていた。そのときのことを思い出して、精神安定剤を飲んだ。

戻れるなら戻りたい?と、聞かれたら、そりゃ戻りたい。おおむね5年、心療内科に通ってうつ病患者として生活し始めてから経った。その、5年前に戻れるなら。また同じように病院に通いながらになるかもしれないけど、今よりはたぶん、マシになるだろう。
そこまで考えて、猛烈に悲しくなった。飲むヨーグルトを無意味に飲んで、ちょっと打ちひしがれた。
でもそのままでいるのも癪だから、人生は再構築できる、という仮定を立てた。
突然何を言っているのかなんて僕が教えて欲しいのだが、今日はそういうことを思いつく日だった。
もう僕は5年前と年齢も立場も違う。仕事も違う。趣味は増えた。推しも増えた。夢も増えたし、30歳の誕生日に自殺をする予定はなくなった。

結局、自己肯定感というのは積み重ねなのだ。貯金と同じ。ある日突然どかんと増えたりしない。そして、おそらくそれらをコツコツ貯めるのは、日々の自分の些細な努力なのだ。
友人と過ごす時間や、エンタメに身を費やす時間も自己肯定感上がるけど、「こんなことしてる場合じゃないのにな」と自分に後ろめたさがあるときは、全力で楽しめない。だから、「毎日の自分」が、明日の自分の自己肯定感を作るのだと思う。
たぶんこんなこと前の千年からわかっていたことで、皆さんご存知の通り、だと思う。僕だって知っていた。だけど、それを体感しないままでいた。最近、劇的な何かがあったわけではないけれど、それを深く体感したのだ。
中学生の自分がみていた夢、近々実現させたい目標、今の自分がかなえたい理想、そういうものをただ掲げるだけではなく、唱えるだけではなく、実現するためには。
とにもかくにも、僕の場合はスタート地点の足場が酷すぎる。ギリギリ、スタート地点に立ってはいるつもりなのだけれど。

部屋の掃除をするとか、コンビニで無駄遣いしないとか、締め切りを守るとか。
毎晩おふろに入るとか、体をストレッチするとか。そういうことだ。
明日でいいや、って思ったこと、だいたい明日やらないからね。明日の自分に負債を残さないようにする、のが、僕の今年のささやかな目標だ。

そりゃときどきは(2日に1回くらいは)、猛烈に他者からの肯定を必要とすると思う。じゃないと埋まらない穴というものある、そして僕はそれが大きすぎる。
僕という球体に空いた、そういう「自分が少し自分のために時間を使えば埋められる落とし穴」みたいなものを、丁寧にパテで埋めるような年になればいい。きっと球体にはまだ余計なものがたくさんついているから、少しずつふるい落としながら、でこぼこを埋めながら。
それで、きのうみたいに、ああ、たのしいなあ、という時間で、そこに花とか植えたい。そういう、僕自身の惑星を、より、自分のために良いものにしたい。
自分のため、と言いながら、僕の密かな目標の1つが「ユニセフに定額寄付をする」ことなのだけれど、これは僕の中学時代の夢の話だ。あのころは、そういう人になりたかったけど、なれなかったから、せめて支援できたら。誰かのため、なんて言いながら、結局は自分のための行為ばかりするの、嫌だなあと思っていたけれど、それでいいんだと思う。 やる偽善を僕は支持する。

じゃあ実際に毎日どうしたいか、とかっていうのは、まあ、これから詰めるとして。……というか、ここに書くのはちょっと恥ずかしいとして。
僕の胸にある∠RECEIVERを、いつでも発動できる、そういう「スタート地点」を作りたいな、などと、思っていたら午後2時をまわり、薬が効いて痛みも精神の辛さも落ち着いた。そんな、人生ぶんの、本日。

天使は角にいるし、笑えば福が来るし、∠RECEIVERはいつも僕の中にある。僕は今年、それから、もうすこし長い時間をかけて、「人生は再構築できる」という仮定を、証明していきたい。

ダイアリー 〜20/01/04〜 ノスタルジーの鬼ころし添え

1月4日の朝、起きたら猛烈に腹が痛くて、あーこれ排卵痛だな、たぶん明日くらいまで痛いな、と思ったら案の定今日の夕方くらいまで身体ボロボロだった。

1月4日は新年会だった。みんなポルノファンである。端的に言うとアホの集まりだ。
大遅刻したくせに買い物もできずに中抜けして、ぬけぬけ戻って夜まで遊んだ。なんかもう、受け入れてくれてありがとうという気持ちだ。

僕はこのアホの集まりがすごく好きだ。
よく、大人になると友達が減る、遊びの種類が減る、と言う。それはその通りだと思う。毎日友人に会うわけではないし、連絡が苦手なうえドタキャン芸人である僕の友人は減るばかりだ。しかもだいたい「遊ぶ」=「ご飯に行く、飲みに行く」である。
そうじゃなくて本気で遊びたいなあ、というぼんやりした欲求を、2019年秋頃からボードゲームという手段で満たしてきた。これはいい。完全に「遊び」だ。

その流れで、1月4日も楽しかった。お腹めっちゃ痛かったけど、お酒飲んだらどうにかなる。そのかわりすごく悪酔いした。
僕は悪酔いすると人にとにかく(物理的に)くっつき、甘えまくる。最悪な飲み方をすると、男の子にハグとキスをしてまわるセクハラ魔人になるので、最悪な飲み方はしたくないなと思っている。昨日は最悪には至らず、いつもの犠牲者(ありがとう大好きだよ)が一手に僕のハグを受けてくれた。よかった。

先日、友人の家で、積まれた味噌煮込みうどんを美味しくいただきながら、友人が言っていたことを思い出していた。スーパーで、あるいは台所で。分量を見たかと思うと、「まぁ、いっぱい入ってると嬉しいからね」と言って多いほうを選んだ。「肉なんかみんな好きだもんね、いっぱいあったら嬉しいよね」とどさどさ投入された。
すげえ美味かった。うどんなのにそばみたいな音立てて食った。いっぱいあると嬉しいなあ、と思った。

その友人がこの新年会でも、鍋を作りながら、いっぱいあると嬉しいよね、と言っていて、いいなあ、と思った。この「いいなあ」を表すための的確な言葉が浮かばないのだけれど。おおらかで、度量がある。鍋にぎゅうぎゅうの葉っぱを見ると、なんだか楽しいのがぎゅうぎゅうに煮込まれているみたいだった。小難しいことを考えないといけないタイミングだってもちろんあるし、必要だけれど、でも、ふとしたときに、「まぁいっぱいあったら嬉しいもんね」と、「嬉しい」ほうを選べるのは、僕がその友人を好きな理由でもある。誰も傷つかない「嬉しい」は、なんだかとってもよい。

ケーキがあったのも、嬉しかった。ケーキというのは要するに(僕にとっては)幸福の具現化である。幸福を食うのだから幸福に決まっている。キウイだけ喉痒くなるから食べられなくて残念だったけど、でも新年のケーキは嬉しい。嬉しいのはよいことだ。

酒があったのも嬉しかった。悪酔いしてごめん。でも飲めって言われたらまだ飲めたなあ、などと思う。鬼ころしをストローで吸わずに割って飲むなんてオシャレだ。

みんなでお好み焼きを作ったのも楽しかった。いや、僕は何もしていない。ただ食べただけだ。僕は美味しく食べる係を全うした。本当に美味しかった。
みんなでガチャガチャ料理をするの、基本的には苦手だ。あの、職場のバーベキューとかそういうやつ。何をしたらいいのかわからないから、無限にゴミ拾ったり洗い物したりしている。それもできないともうお手上げだ。役立たずとして立ち尽くすしかない。料理ができないし、なんなら取り分けたりとかもできないから、そこにいることに猛烈に負い目を感じる。
でも、みんなでガチャガチャ料理をするなかで、食べるとか洗うとか、それだけしても責められないのはすごくよかった。いや、みんなの内心はさておき(不快に思ってる人いたらごめんね)。食べるとか洗うとかしかできない場合、できることをやればよいんだという空間は、限りなく受容だ。
「何もしないで」と言われて、何もしないでいたら怒られたり、気を利かせろと言われて気を利かせたつもりが失敗したり。僕の人生に多いそういうことがない空間はとっても、精神衛生上、よいのだ。

そんな鍋やらケーキやらを嬉しく食べながら、楽しくボードゲームをした。初プレイのはずの友人がボコボコに強かったり、意外なやつがポンコツだったり、リアクションがでかすぎて邪魔だったり(僕です)、無心になって遊ぶというのは、心にとてもいいなあと思った。僕はすっかりボードゲームが好きなので、今後みんなと積極的にやりたい。犯人は踊るだけは持ち歩いてるんだけど。
この歳になると、なんて言葉使いたくないけど、まぁ、この歳になると、公園でおにごっこをするには、本来そこで遊ぶ子供達の邪魔になってしまうし、遊ぶって難しい。だからボードゲームをみんなでやるようなことがたまにあると、わくわくする。つぎもプロポーズをやるなら、勝ちたい。

よいなあ、という気持ちとともに美味しいものを食べ、空間に受容され、楽しくゲームをした。僕が何か粗相をしていたかもしれないし、遅刻中抜けというありえないかんじではあったし、途中ハンサムDVD見ててなにもしなかったし(襲来されてた)、ほんとうは不快に思っていた人がいたらごめんなさいなんだけど。
またああいう日があればいいな、と思う。よければ次も、仲間に入れてください。いつもなにもかもごめんね。ありがとう。

 

ダイアリー 〜20/01/02

僕は、もっと夢をみていいのだと。
いままでで、真っ先に諦めてきたのは自分のことだったし、なにより、僕自身が、僕自身を信頼していないし、愛していない。自分のことを好きではない。
滑稽なのは承知だから、どうぞどこかでバカにして笑ってほしいけれど、僕はそれでも、今さらだけど、ほんのすこしでいいから、自分を好きになりたい。
自尊感情?自己肯定感?全部ない。
なんならいま、自分を好きになりたいと文字にしていることすら恥ずかしい。こんな僕が。惨めでたまらないけれど、でも、惨めだからやめる、というのは、やめる。

だから、もし、これを読んでいる物好き諸氏が、僕の「いまのよかったじゃ〜〜ん」を見つけたら、教えてほしい。「いまのよかった」とか。あるいは「だめだった」も教えてほしい。そういうの積み重ねて自分に結びつけたい。人は1人では自分を好きにもなれない。

今年もやりたいことはあんまり変わらない。去年から。そこそこに貯金して、生活力をつけたい。部屋の掃除で困り果てたりしないですむように、日常の中に掃除と筋トレを組み込みたい。
もちろん毎日同じリズムで生活してるわけじゃないから難しいけど、目下、部屋の掃除と筋トレと湯船を、1日に組み込みたい。これ、うまくできたら自分のこと好きになれると思うから。

自分を好きになりたい、と、どもらずに、泣かずに、表明できるようになりたい。
そのために、じゃあ、どうするか。

自分が使った食器は洗うとして、
部屋に昨日捨てたゴミとか捨てて5分くらい部屋掃除して、
20分くらい筋トレして、
30分くらいお風呂入って、
ベットで本読んだりとかして、
自分のための一年にしたいなあ。
部屋が綺麗なのはメンタルにいいから。
お風呂もメンタルにいいし、運動はスッキリするから。
「毎日は無理でも、できる限りやったほうがいいことリスト」を作って、それを毎日何個できたか、数えてみたい。
それから、現場の記録ノート作って、手帳にはスマイルマーク書いて。あ、そしたら、スマイルマークの手帳とできたできない手帳、ら一緒のやつ使えばいいね。
持ち歩く仕事用のやつと、家で1日1ページするやつと、現場ノートと……
ノート書くために、部屋の机を片付ける!!!ノート入れるための箱と、ペンケース買う。

こういうの、はじめはやるけど続かなくて、落ち込むことが多いけど。でも、とりあえずスマホにメモしたものを後で書き起こすんでもいいわけだし。なにより、読み返したときに自分のことをすこし見直せそうだから。明日から取り入れます。

なんの話だ〜〜

 

ダイアリー 〜19/12/30

体がギクシャクする。
疲れているというわけではなくて、まだうまく馴染んでない、というか。いや、疲れてもいるのだけれど。
なんで年末ってこういうブログ書くんだろうね。まぁいいや。今年もいろいろありました、と思うけど、どこからが今年だったのかもはやわからない。あっという間、とは思わないけれど、いろんな記憶の比重の話だ。

今年の頭に打ち立てた目標は、なにひとつ成し得ないまま年が終わります。そういうタイプの一年だった。
たくさん友達ができたな〜〜!みんなに自分の性別や障害についてちゃんと話してないなあって思う。そういうの説明したほうがいいんだろうなあとは思う。草の根運動的にはね。だけどなんか、タイミングがなくて。トランスジェンダー自閉症スペクトラムですって、またブログでも書こうかな。別にそんなの言う必要ない社会にしたいけど、そのために、いまはまだカミングアウトが意味をなすと思ってるので。自分の好奇心のために他人に尋ねるのはバカだけどね。

本当ならもっと早くにしてないといけなかったのかもしれないことにたどり着いた年ではあった、と思う。
自分の腕の短さを、知ってはいたけど痛感したから、仕事と趣味と自分のライフワークを両立するためには「割り切る」ことが必要だとか。
やっぱり倒れてからの5年だか4年だか、僕わりといろんなところで無理してたんだなあ、とか。
でも自分を守るために自傷しちゃうなんて中学生かよ、とか。
じゃあ来年からどうしようかな、とか。

結局ずっと楽なところにいたんだなあ。しんどいことを直視するほど頑張れてなかった。自分があれほど誠実であることを求め焦がれていながら、自分自身にいちばん誠実じゃなかったな。
自分が悪いから、自分のせいだから、そうやって腕を切るのって、すっごいらくだもん。
そうじゃないと生きることさえ難しいくらい、本当にどうしようもないことも、まぁ、少なからずあるから、そういうのをまるごと否定したいわけじゃなくて、ただ、減らせたらいいな。
自分がこうしていればよかった、次はそうしよう、って反省で終わらせられたらいいな。
適度に「あいつがわるい」って怒れたらいいな。

このあいだちょっと魔法使いに会ってから、あー、自分のこと好きになりたいなあ、と思うようになって。僕がこんなこと言うのあまりにも情けなくて恥ずかしいのだけれど、でもそう思うので。
あと何年で死ぬかわからないけど(早めがいいなとは思うけど)、どうにか、なれたらなあ。

開き直るとはちがうけど、例えば僕がカッコよくなりたいとか、自分のこと好きになりたいとか、滑稽なんだよね。人から見たらお笑いぐさでしかないと思うし、僕だって自分で惨めな願望だなって思う。あまりに自分が不出来で不格好だから、すこし上を向くと、それだけで、自己否定しないと苦しくなる。そうだよ、滑稽だよ、ゴミだよ歩く粗大ゴミだよ、でも、それでもいいから、どうにかこうにか。どうにかこうにか、どうしたいのか。
自分のこと、ちょっぴりでも認めてあげられたらいいけど。自尊感情も自己肯定感も相変わらずないけど、でも、なんだろうなあ。頭の中がうまく動いてない、わけじゃないけど……。自分のこと好きになりたいなんて言う自分があんまりにも滑稽で恥ずかしくて情けなくて、でも、本心を言葉にするときってだいたい滑稽で惨めで情けないよね。女の子に告白するときみたいなもの。まぁこの情けなさも込みで、僕自身だという愛しかたが、できるようになったらいいな。

何年かぶりに、あけおめー、が封じられる正月がくる。やっぱり部屋は片付かない。大晦日のうちになんとかなるのか?またデスノート読んじゃいそうだなあ……