人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

あなたに殺されたいだけの人生 うつろ[虚]のまこと[真]を見て語らずにいられなくなったナルシズム

うつろ[虚]のまこと[真]という舞台を観てきた。もっとシンプルに現代版の浄瑠璃なのかと思っていたら、「いかにしてこの浄瑠璃は書かれたのか」という、近松門左衛門の話だった。その中で物語が描かれる。僕の目当ての戸谷公人さんが出演してるのは、曽根崎心中をモチーフにした部分、「名残之章」。

以下、ネタバレをふわっと含む自分語りです。乾燥と呼ぶには愚かで、レポとはとても呼べない、ナルシスティックな自分語り。なんでも許せる人だけお読みください。なんてったって自分語りなので。
ネタバレを含みます。

 


***

 


初恋のときからずっと夢みていること。これを夢と呼んでいいのかはわからないけれど、僕は好きな人にゆるされたくて生きている。
生まれて初めて恋をした当時、くりかえしみた夢がある。その子の膝に縋り付いて、ない罪のために必死に謝る夢。ごめんなさい、ごめんなさい、そうひたすらに言いながら号泣してその人のスカートから出た膝を濡らす僕に、夢の中で彼女は決まって言った。「いいよ。ゆるしてあげる」
今でもたまに、全く同じ夢をみる。白昼、脳裏をよぎることもある。相手はそのときとは違う。顔も見えないだれか、誰かにゆるされたくて生きている。いや、生きているというか、ゆるされたくて、日々、死にぞこなっている。


自覚したのがいつだか覚えていないけれど、僕はとにかく自己肯定感が低い。ないに等しい。自分を褒められるのは苦手、というわけではないけれど混乱する。これはもう一種の脳の病気だけど。
自分とは切り離すことができるという理由で、自分の書いたものを褒められるほうがはるかに納得できる。あれは確かに僕が書いたものだけれど、僕自身ではないから。言霊は切り離される。
近松門左衛門がどうだったのかは知らないけれど、都合よく解釈させてもらうなら、彼もきっと、自分自身ではなくて、彼の書いたものを愛され信頼されることではじめて、それを受け止めることができたのではないかと思う。彼は彼の言霊に矜持を持っていたから。それは僕もそうだ。僕は文章を生業にはしていないし、ただ(病的に)文章を書かずには生きていられないというだけだけれど。それでも僕は僕の込める言霊には絶対に力があるし、それを届ける文章を書けるとも自負している。思い上がりで結構だ。だけれど、同時に、その文章に価値は内在しない。人にこれは価値だと言ってもらって、はじめてそこに価値が生まれる。
どんなに美しい宝石でも、それを求める人がいなければ無価値だし、川辺の石ころも、そこに価値を見出す人がいれば価値ある石になる。
僕は(僕の解釈において、近松門左衛門と僕は)、僕たちの書くものに、言霊に、絶対的な矜持を持っている。それはほとんど意地と同じで、汚らしいほうの意地だ。同時に、自分がそこにどれだけ言霊を込めても魂を込めても、そこに価値を見出してくれる人がいない限り、価値が発生しないことも知っている。というか、それが現実だと思い込んでいる。

近松門左衛門には、義太夫がいた。
義太夫浄瑠璃小屋の主人で、話の中で、どれだけ義太夫近松門左衛門の「言霊」に惚れ込んでいるか繰り返す。そして、頼むから作品を書いてくれと頭を下げる。僕が気持ちよかったのは、義太夫近松門左衛門自身に惚れてはいないことだった。あくまで彼の書く言葉に、彼の紡ぐ物語に惚れていた。だからこそ、正面切って言えたのだろう。おまえとやりたい、と。
そして近松も、自分の人格でもなんでもなく、自分の言霊を信頼している人の言葉だから、聞く耳を持ったのだと思う。「おまえの言霊に惚れた」という「言霊」によって、彼は書いたのだ。僕には、あの2人はそう思えた。
近松が、羨ましかった。自分の文章を、言霊を、必要とされることが。その喜びが。一瞬ではなく。上っ面ではなく。何年も何年も、惚れ込まれ続けていることが。自分の言霊に酔う人がいると、信じられるほど、素晴らしい作品だと伝えてもらえることが。

僕はいつだって愛されたい。でもどう愛されたらいいのかわからない。だからせめて僕のエゴを受け入れてほしい、好きと言わせてほしい、そう思っている。愛することを許してほしい。今じゃなくていい、いつか誰かが僕の言霊で心軽くする日がきますように。いつか誰かが、僕の言霊の花束を抱きしめてくれますように。僕は僕に持ちうるすべての言霊と愛を言霊という花束に込めて振りまいて、振り回して、押し付けている。たぶん死ぬまでそうだろう。近松と僕が違うのは、それを欲されているかいないかの違いだ。
近松門左衛門は、義太夫がいたから、書けた。きっと近松はそれを認めないだろうけれど、あるいは無自覚かもしれないけれど。愛によってしか生まれない言霊というのは、確かにあるのだ。

僕の夢のなか、ゆるされたくて縋る膝はいつだってつるんとうつくしくて、コツンと骨に当たって、妙だ。痛くはない。でもけっしてやわらかくもない。
僕の敬愛するギタリストが込めた歌詞に「生まれ落ちた罪 生き残る罰」というフレーズがある。僕は、まさしくそれを背負っている。生まれてすみません、と太宰治のように思っている。生まれた罪を強制的に償うのが人生だ、それが生まれてしまった僕に与えられた罰なんだ。そう本気で思っている。
だから、ゆるされたくて仕方がない。
何かをしたとかではなく、僕が生まれ持った罪をゆるされたい。ただ圧倒的な赦しがほしい。肯定されて、ゆるされたい。ゆるされるために、僕はしばしばものを利用する。たまには他人の感情さえ利用する。そのあと落ち込むけれど。ただでさえ罰を生きているのに、そのうえにさらに何か被せられると本当に身動きが取れなくなる。生きているだけで申し訳ないのに。
できることなら愛している女性の膝にすがって赦しをこいたい。神様か女神様かなんだって構わない。生きていることを許してほしいと思う。何もできない僕を。頭が悪くて見た目が悪くて取り柄がなくて、騙されてばかりで、金持ちでもなくて、ないものばかりの僕を、それでいいのとゆるしてほしい。……その罪を終わらせるために、一緒に死んでくれる女神様をずっと探している。だけれど同時に女神様を殺したくはなくて、だから僕の恋はいつも未遂、未完で終わってしまう。終わらせてしまう。

大好きな俳優である戸谷公人さん曽根崎心中。しかも徳兵衛。マジかーって思ってた。曽根崎心中の筋書きはみなさんご存知の通りだと思うけれど、簡単に言うと心中だ。そのまんまだ。友人に裏切られて罪人に仕立て上げられた優男と、廓に縛り付けられた女が、恋のために死ぬ。それだけの、シンプルな話。
曽根崎心中が演じられているとき、友人に裏切られて街を追われ、見つかれば罪人として罪を問われることになった徳兵衛を見たとき、僕はその姿に、愚かながら自分を重ねた。勝手に。(戸谷さんは役に「なる」ことができる人だから、もはや徳兵衛さんと呼んでしまう)。
生きているだけで、罪に問われる。彼は僕みたいな生まれつき原罪を抱えていた人ではないけど、そうなってしまったのだ。
そんな彼が身を隠して必死に、恋人、お初の働く廓へやってくる。そこで、彼女は徳兵衛をかくまい、足元に隠しながら、徳兵衛に罪を着せた友人に対して一歩も譲らぬ愛を見せつける。徳兵衛はお初の足元に隠れ、縋るように彼女の脚を抱き、その脛でぽろぽろと涙を流している。まるで、足の甲に口付けるみたいに。女王様に誓うように、あるいは、赦しへ感謝するように。
羨ましかった。
さっきまで勝手に投影していた自分が、そこにはもういなかった。僕はあんなふうに、足に縋り付いて泣いて許してもらうことをずっとずっと救いみたいに頭に描いているのに、それをまだしてもらったことがないから。
僕も徳兵衛と同じで、結婚したいと思った女の人がいる。結ばれたいと。だけど徳兵衛たちと同じで、社会的にそれはちょっと難しい。彼らは江戸時代という身分格差と家柄において、僕らは戸籍の性別において。そのひとと夜眠るときに、その人の手を取って、僕の首を絞めてくれと頼んだことがある。その人は首を振って代わりに僕の額にキスをして、手を優しく解いて頭を撫でてくれた。殺されたいと、手を強く握っていたはずの僕の手に力は入らなかった。その人のその愛はたしかで、僕はそれが嬉しくて、撫でてもらう髪の優しさに溺れるみたいに、あるいは砂に埋まるようにその日は眠ってしまった。同時に、殺されたいと縋ってしまう自分の罪について考えた。愛した人に殺してくれと頼んで断られるのも、生きてほしいと好きな人に言われるのも、僕の人生の罰なのだ。きっと。

徳兵衛は、完遂した。というか、お初がそれを完遂させた。徳兵衛が本当はどんな男だったのか僕は知らない。でも、羨ましかった。「愛おしいお前を殺せるか」と嘆きながらも、それをさせてくれる人と出会え、その人を殺し、自分も死ねたことが。心の底から羨ましいと思った。

観劇し終わって、気づいたら頬がカピカピになっていた。目を触ったら濡れていた。どうやら泣いていたようだ、と思いながら、呆然としていた。階段を降りながら、笑いが止まらなかった。今夜僕がこのまま好きな人に会いに行くことがゆるされるなら、殺してほしいと思って、笑った。叶わないのは重々承知だ。

あと何回か見に行くけれど、女の足に縋り付いて許しを請い、そして許されて死んでいく徳兵衛を、僕は直視できるかわからない。徳兵衛の涙が震えるほど美しいからというのもある(戸谷さんのお芝居が素晴らしい)けれど、なによりも、羨ましさで、観劇したあと1人になったら、僕が何をしてしまうか、自分でもわからない。
でもおとなしく電車に揺られて家に帰るのだろう。そしてきっとまたあの夢をみる。

 

 

ダイアリー未満 〜18/05/26 生まれ落ちた罪と生き残る罰、愛されたいと願うたび表情を変える世界について

きのうインディゴトマト🍅見てからいっぱい考えてるんだけど、僕にとって「ゆるす」「ゆるされる」がすごく大きなテーマで、そこを基準に物語見てたんだなって改めて思った。居場所、があることの羨ましさのようなもの。なにもなくても僕が僕で生きてりゃいいと言ってほしいと信じさせてほしいとすごく強く思うけど、言ってもらっても僕はそれをうまく信じることができるほど自己肯定感がない。だから悲しいなと思う。
いや、僕にだって居場所や愛をくれる人はいるんだよ、ありがたいことに。感謝しかないし、その人たちにはたくさん花束押し付けて死んで生きたいと思う。そしてもちろんあらゆる人からもらう僕に向けての肯定的なことばや行動は大事にとっておきたいしいつだって僕を許してくれるから、ありがたいなと思うし、やっぱり僕からだって贈り返したい。

でも自己肯定感がはちゃめちゃに低いもんでさ。だからこそ「書いたもの」であるとか「した行動」みたいな、自分には属しているけれども自分からは切り離すことができるものへの肯定のほうが強く受け取れるんだよなーっていうのはある……のかもしれないなあ、とか思ったりして。まるごと愛してもらっている、とわかっていてもよ。
何か僕に突出した能力や天才的なものがあったりして、いろんな人にチヤホヤしてもらえたらいいのに、とたまに(26歳になった今でも)思ってしまうのはそういうことなのかな。ちやほやされているとき、なんとなく浮ついて許された勘違いができるから。

ただ、もっとうまく受け取れないのかな、って自分に対して責めたくなるだけ。自分がうまくできないの。

でも許してほしいって気持ちは、僕が「勝手に」生まれながらに生きていることへの罪を背負っていることからうまれているし、それは僕が「勝手に」自分に課したものだから、それを誰かに許してほしいと思うなんて身勝手極まりないわがままなのだよなあ、とも思う。ぜんぶ本当に身勝手だ。
でも生まれ落ちた罪生き残る罰、というのは僕にとってはなまなましいリアルで、苦しいし、生きづらい。

ただでさえそこそこ生きづらい初期型スペックなのに、そんななかでも生きづらさをすこし溶かしてくれるのは、用事があるときだけじゃなくて毎日ちょっとずつラインするとか、そういうこと。そういうことで僕はへろへろになるくらい許されていく感覚みたいなのを得られるし、ツイッターではいた弱音に誰かが構ってくれるだけで僕は少し救われるから、SNS時代生まれでよかったなーと思う。
でも同時に「からだにさわる(てをつなぐ)」とか、「目と目をちゃんと見る」とか、「手紙を書いてくれる」とか、「会いに行く/来てくれる」という行為から得る許しはすごくて、そういうひとつひとつの記憶や文字にすがってやりすごさないといられない夜とかもあって、ときどき生きてるのしんどい。そういう許しに依存してしまいたくなることすらある。……結局僕が「自分は生きていてもいい、ここにいてもいい、生きていてもいい」と思うその肯定感(ゆるし)すら、他人に依存しないと得られないものなのかもしれない。と思うとすこし怖いけど、納得もできる。僕がどうしてこんなに人が好きで、好きな人に自分の言葉だけ押し付けて愛していると無理やりにでも告げたいのか。つじつまが合う。

せめて好きと言われたらそれを信じられるくらいの自己肯定感は欲しい。
もちろん嬉しいし大事にするしその人たちにたくさん返したいと思うけど。でももっとちゃんと受け止めて抱きしめられるはずなのになあと。自己肯定感金で買えたらいいのに。そのくせ人のことは愛したがるから面倒な人種だよな僕……

……ごめんSNS時代生まれは盛った。Sanrio tiny parkからHTMLホムペ!時代を超えたパソコンと同期くらいです。

 

ダイアリー18/05/25 〜Indigo Tomatoがすごくよかったという日記

インディゴトマト🍅みてきた!

見たあと感情がぐっちゃぐちゃになって、語彙をなくしたあと、感想を人にしゃべりながら震えが止まらなくなって笑、それを見た好きな人が見かねておてて貸してくれたからずーっとにぎってもらっていた。泣いちゃいそうだったしいまも泣きそう。
もともと家庭環境?なのかわからないけど泣くというのが下手で涙腺キツキツで、泣く訓練とかして最近は泣くようになったんだけど、泣く前に爆笑したり、涙がうまく出てこなくて震えたりするんだよね。涙の代わりを全部ことばで補ってきたから、ことばでうまく感想言えない、みたいになると本当に震える……笑 そして、泣きっぱなし、震えっぱなし、心にきすぎてもう一回行きたい。そんな舞台でした、Indigo Tomato。迷ってるなら是非見に行ってほしい。圧倒的で打ちのめされて打ちひしがれてもしまうけど、たくさん考えて、本当に心揺さぶられたし、なによりこれが日本オリジナルミュージカルというのがすごく嬉しい!日本のエンタメもまだまだアツいというか盛り上がってんじゃん、ってかんじ。

以下ネタバレもりもりな感想〜〜
あくまで感想と自分語りなのであらゆるクレームを受けません!

どこからネタバレかわからないから全部書く!!!!

 

 

 

サヴァン症候群って僕の自閉症スペクトラムと切り離せない障害(と呼ぶのあまり好きじゃないのだけど)だから、最初からずっと他人事じゃなかった。僕は天才型ではないけど能力にものすごく偏りがあるし、主人公はもちろん僕とはまるで違うんだけど、変な感情移入をした。あと僕ってすごく変、というか半端な共感覚があって、一部にだけそれがあるんだけど、数字と音はわかんないんだよな。文字と本のページには色も匂いも音もある。本のタイトル思い出せないときに「あの緑っぽい本」とか言う。共感覚というよりは発達障害のうちのひとつなんだろなーって思ってる。だからなんか、他人事じゃなかったというか。

自分が死ぬ前提でしか生きてないからあれなんだけど、ああやってどんなかたちであれ「存在を容認され愛される」というのは羨ましいなと思った。タカシだからできたこと。容認されるというと言葉がおかしいかもしれないけど、誰かが自分を好きでいてくれる、ゆるしてくれる、という確信みたいなものを彼は最後に得たのだろうし、それがシンプルに羨ましくて泣いた。
マモルくんも。彼はその名の通りの人生を歩んで来たしこれからも歩むのだろうけれど、もうひとつのチャレンジングなカードを選べたのは「まもってくれる」そして「絶対に味方をしてくれる」タカシくんの存在があるからで、あの兄弟は本当に美しいなと思った。
ただ美しいだけじゃなくて、ケンカしたり、サヴァン症候群の兄を抱える苦悩とかそれでキレてしまうところ、いままでずっと諦め続けて来た部分が描写されてたのも本当によかった。
なにより2人が本当に良かった。良い脚本に良い芝居、最高ですね。ふたりともびっくりするほど歌が上手いし、なにより平間さんが踊った瞬間ほぼ反射的に涙出て来てしまった。美しすぎる。演技も歌も素晴らしくて、サヴァン症候群演じるあの技術もすごいんだけど、踊った瞬間にタカシくんが普段そこにいる数字の世界を見せてもらえた気がした。世界を表現してくれる踊り手さんで役者さんだなって。
あと平間さんもみぞたくも声がすこぶる良い。あれは羨ましいレベル。
羨ましいといえば2人のオタクだよね、推しを追いかけてあの舞台に出会えるの最高すぎない?羨ましいわ!!!って素直に思いました。

最初から最後まですごすぎてあんま覚えてない(泣きすぎて記憶が飛んでる)んだけど、ものすごいインパクトがあったのは「お母さんの最後の言葉」なんだよな。その前にローズさんが「愛でも心を強いることはできない」って言っててすごくはっとして、そうだよな、って思ってたんだけど、そのあとにお母さんの最後の言葉がほんとうに言霊をもってふたりに響いたことがすごく嬉しかったというか救われた。言霊を信じているから。ハリーポッターで、ハリーのママがハリーにかけた守りの魔法みたいな、そういうことができるのは言葉だと思うから。そして言霊に宿るのは愛だから、愛で心を強いることはできないけれど、愛であなたを守りたい、愛であなたになにか残したい、愛をあなたに押し付けたいという気持ちがちょっと救われた気がしたんだ。そこかよ、って感じのポイントではあるけど、僕はやっぱりそういう言霊を使える人になりたい。自分の愛をあなたに伝えて押し付けていきたい。受け取ってくれたらそれでいい、捨ててしまってもいい。好きな人大事な人を迷いなく愛したい。愛するために僕に使える手段は、数字でも夢でもなく、ダンスでもなく、言葉だから。あなたに言葉の花束を押し付けて死ぬ、ために生きる。そう思った。

 

 

ダイアリー18/03/18 美しくなりたいと思う自分を許せるようになった話

ここ最近「美しい」について考えている。僕の行動指針、そして僕の好きなもの。僕は美しいものが好きだしそれに憧れている。

太宰が「醜と愚鈍とは死刑である」って書いていて、僕は醜と愚鈍そのものだと思っている。生まれつき希死念慮が強いし(これは脳のバグだけど)、自己否定の感覚が強いけど。

最近ね、明日も頑張ろうとか、仕事頑張ろうとか、先のことを見るのあまりにも自分らしくないこと思っちゃうんだよね。笑
カッコよくなりたいとか痩せたいとか思うのも、僕みたいな醜悪な人間がなにを言ってるんだろうと嘲笑する自分は確かに心の中にいる。いるんだけど、でも、頑張ろうとする自分を美しいと思えるようになった。
僕自身は僕をまだ美しいと思えないけど、美しくなりたいと思うこと、思ってなにか行動すること自体は許せるようになってきたんだ。そうやって自分を美しくしようとする自分を、ほんのすこしだけ美しいと思えるようになった。

王子様になりたいなあ、と僕は思う。ウテナ見たからだと思うけど。あと、butterfly effect見た影響もある。死にたくなったのもBEのせいだけど。あとね、人の影響、大きい。好きと言ってもらえること、文章を褒めてもらえること、そういうことが最近またあったから(お誕生日にほめて箱してくれた人ありがとうございました)、それが僕のちからになっている。
かっこよくて、誰かにとっての救いになれるような。憧れになれるような。そんな王子様。
だけど僕は王子様とは程遠くて。僕は好きな人を、大事にしたいと心を決めた人ほど、幸せにできないと思って手放してしまう。そして勝手に落ち込む。笑 ものも、そう。
だけど、僕はそれが自分の美しい姿だと思うから。いまは、また手放したものが恋しくて、しんどい、と泣きたくなったりすることがあるんだけど。でも、僕は自分が美しいと思うようにありたいと思う。
その瞬間の誠実を何度も積み重ねて生きていきたい。ほんとそれしか言ってないな。でもそれしか思えないんだよ。
自分が美しいと思えるものを愛していきたい。自分を美しいと思えるようになりたい。そう思うことを、そう思って行動することを、許せるようになった。自分をほんのすこし、ゆるせた、ような気がする。

あしたからまたちょっと仕事大変で、しんどいんだけど、なんとかしていきたい。もっとやりたいこと、やらなきゃいけないことはあるんだけど、それができない日がもしかしたら続くかもしれないけど、せめてその一瞬、一瞬に、自分に尽くせる最大限のベストを。

あしたからしばらくしんどい日々が続くけど、休みの日と定時で上がれた日にはジムに行って運動する。戸谷さんと太田さん見たら、やっぱり美しくて、ああはなれないけど、近づくことはできると思いたい、と思ったから。僕は美しくなりたい。容姿への尋常じゃないコンプレックス、なんとかしたい。目指せ標準体型!!!!!!!!

そして勉強。秋の試験のための勉強と、英語のキープ。それから最近読書できてないぞ、読書。コンスタントに読もう。月2冊は読もう。4月半ばまでは大変かもしれないけど。
ドリフェス!も絶対後悔したくないから最後までとつばくあけて、全力で追いかける。
大丈夫。頑張れる。明日死んでも後悔しない夜だけを迎えよう。ちゃんと早死するために、ちゃんと生きよう。

あなたにも、そして僕自身にも、愛で襲来を。

 

http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2016/09/01/005212

ドリフェス!と僕、の日記(便乗したかっただけ)

KUROFUNE、愛してるぜ。


トピック「ドリフェス」について


前に書いたやつだけど、リンク貼るだけ貼らせてください。たくさんの人が気持ちを叫んでいるから、僕も混ぜてほしくなった。こういうの、便乗せずにいられないタイプなのだ。

どちらの記事もすごく読む人を選ぶのでなんでも許せる人だけお願いします。ドリフェス!を愛していて、武道館を楽しみにしているオタクの日記です。ただの日記なのでクレームは一切受けません。


パシフィコ横浜前日の日記

アミューズ音楽班のオタクが俳優班というかKUROFUNEに人生変えられた話

http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2018/02/24/192552


3/5を経て書いた日記

武道館が「聖地」になる日

http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2018/03/07/225416


ファンの応援なんて、所詮ファンのエゴでしかない。こっちが勝手にやってること。それを愛してくれて、ファイナルステージをきちんと告知してくれて、それまでライバルとして一緒に突っ走る猶予をくれて、ありがとう。ドリフェス!くん。

ファンの数だけファン活動があるけど、「続くって告知を待ちながらハラハラ送る応援より、これがファイナルステージだから全力でその瞬間の応援にベストを尽くしたい!」と、思う。これが僕の応援の送り方。他の人には他の人なりのやり方があると思う。すべてが彼らの糧になりますように、と思ってしまうのもまたファンのエゴ。応援って書いて、エールと読むけど、同時にエゴって読むんだろう。

それでも、応援を送るの、やめないよ。ファイナルステージまで、満喫しきってやるからな。


ダイアリー 18/03/07 〜武道館が「聖地」になる日

流行りの(?)ドリフェス!と私シリーズ。
思い上がりもいいところなクソオタクの日記です。意味わかんないこと言ってます。なんでも許せる人だけお願いします。一切のクレームを受けません。

トピック「ドリフェス」について

 

愛しているコンテンツが、一旦区切りをつけるらしい。ドリフェス!くん、きみだよ。僕はいまきみの話をしている。2次元の展開が終わるのに呼応して、3次元にも区切りがつくらしい。
区切りのファイナルステージを、武道館でやるらしい。KUROFUNEとDearDreamが、立ちたいと言っていた場所だ。

武道館を広いと思ったことが、実はない。毎年12月1日にAAAで行ってるし、わりといろんなアーティストを見に行っている。なにより僕が人生で初めて参戦したライブがさいたまスーパーアリーナだったから、僕の感覚では「広い=さいたまスーパーアリーナ」なのだ。ポルノグラフィティのOMCツアー、2万人ちょいとか入ってたんじゃなかったっけ。
だからファンミーティングやライブで連番相手やチケットを譲ってくれる人が、「席が悪くてすみません」と言ってくれるたびに、「いやこれたまアリだったら5列目くらいなので…めちゃくちゃ近いっす…」と思っていた。
武道館は特別とポルノは言うし、いろんなミュージシャンが言うからそうなんだろうなあ、と思う、けど、あそこは僕にとっての聖地ではないのだ。

でも僕はKUROFUNEと武道館に行きたい。何回もブログにも書いている。KUROFUNEと武道館に行きたい。できたら全国ワンマンツアーのあと、武道館に連れて行ってほしい。もう難しいのかもしれないけど。

特に思い入れもないのに、なんでKUROFUNEと武道館に行きたいのかって、株元さんが武道館に行くと言ったからだ。
武道館まではしょっちゅう行ってたけど、そこを通り越したのはFACE 2 FAITHのリリイベで日本青年館に行ったのが初めてだった。こんなふうになってんだ、と思いながら歩いて入ったそこは狭かった。狭いハコも好きなのでよしよしと思った。座席を探したら列が近すぎて頭抱えた。あんなんたまアリで言ったら、座席とステージのあいだ、警備員さんかカメラマンさんの位置だよ。

KUROFUNEのステージは、スゴかった。
そこで彼は言った。いつか隣の武道館に立つぞーって。勇人さんが、株元さんがそう言うなら。そこを目指すなら。ファンはライバルなので、彼らの見たい景色に連れて行かないといけない。だから絶対そこに連れて行こうと思った。そしてCDの売上枚数を見て、全然足りねえ、と気づいた。退屈なヒットチャートにドロップキックどころかギロチンの勢いで本気で布教したし(沼に落ちて立派な課金ユーザーに育った友人みんなありがとう)、できる限りで2次元にも3次元にも課金してきた。
バトルライブは、僕の応援のすべてみたいな奇跡の時間だった。でもその奇跡は、僕らの応援と、何より彼らの努力と愛に裏打ちされていることを、僕は知っているつもりだ。

アプリとDCDの終わり、そしてファイナルステージが告知された3月5日は、僕の誕生日で、なんつー誕生日プレゼントだよ、と思った。勘弁してくれよ。
でも、僕が真っ先に思ったのは、「今日で終わりじゃなくてよかった」だった。
まだ、猶予がある。ほんのすこしだけど。まだファンでいられる。コラボがあって新曲があって円盤が出て…そして武道館がくる。
そりゃ、もっと長く見ていたかった。もっと応援送りたかった。終わってなんかほしくない。でも、学生のころ留学していたオーストラリアの先生に見送られた日のことを思い出して、愛と幸福についてだけ考えることにした。
その先生はこう言って僕を送りだしてくれた。「帰国前日はみんな、もう1ヶ月いたかったって言うんだ。だけど、どうせもう1ヶ月いたって絶対あと1ヶ月って言うんだよ。だから今日がしおりにとってのベストタイミングなんだ。君の将来に幸福を」。

仮にあと1年ドリフェス!が続いたとして、僕はきっと「もう1年」と思うだろう。そしてこれはキャストもキャラも大人たちも同じだと思う。
死ぬとき、「やりたいことはぜんぶやった!もう満足!ハイ未練なく終わり!」と死ねる人なんて、いない、と僕は思っている。ただ、「未練はあるけど、やれるだけのことはやった、ベストは尽くした」と思える人はいると思う。僕はそういう人になりたい。「やりのこしたことはあるけど、やれることは全部やった」って。その日がその人にとってのベストタイミング。
ドリフェス!は、そのための時間をくれた。
キャラもキャストも大人たちも、まだ未練があるんだとしたら、ますます、これからの時間がありがたい。
例えば僕で言えば、終わりが見えるから、より大胆に動ける。いつまでイベントラッシュなのかわからないから貯金が、なんて言わずにすむ。そのあとでも貯められるってわかってるから。また次があるから…休みを取らずに後悔しないですむ。…いや今まで貯金のためにKUROFUNEを後回しにしたことないんだけど。今まで以上にできるってこと。仕事で福岡行脚いけなくて悔しくて、そのために転職したんだもん。

『いつ終わるかわからないものを応援するんだから、いつ終わっても後悔がないように、全力で応援する』
って、KUROFUNEを追いかけるときに決めて、いままで彼らと走ってきた。すがすがしいほど、後悔がない。ああしておけばよかった、と思うことが、ない。あーパシフィコにお花出しておいてよかった!とは思う。それどころか、彼らの道を、パシフィコから武道館に向かうまで、ほんのすこしでも伸ばせたのは僕らファンの応援なんじゃないかなと思い上がったりしている。エゴだけど。

武道館参戦自体は、僕にとっては、別に珍しいことじゃない。だけど、彼らが立ちたいと言うのを、ナマで聞いたから。その経験ははじめてだ。その場所に立つという彼らの夢を、僕らと一緒に叶えてくれるから。その日、武道館は初めて僕にとって「ライブ会場」ではなく「聖地」になる。その日まで、僕は応援を送り続ける。「聖地」を出たあと、大泣きして「もっと続いてほしかったけど、終わりが来年だったとしても、僕は同じことを言うんだろう」って思うのだろう。

武道館が僕にとって聖地になる日が、きてほしいような、きてほしくないような。でもいつかその日は必ず来るんだから、その日はドリフェス!にありがとうと言いたい。7人の素晴らしい俳優さんに出会わせてくれたこと、5次元として、14人で締めくくることを選んでくれたこと、ファンに最後の応援を送る時間をくれたこと、すべてに。

…それとこれとは別に、アプリの継続(せめて解放したストーリー見られるようにして!)とか、円盤とかフォトブックの要望メールをいまから書くんだけど。笑 手紙のほうがいいのかなあ、こういうの。

 

僕のKUROFUNEと武道館に行きたいシリーズの顕著なやつ
KUROFUNEは武道館に行くぞ
http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2017/07/02/220322

ドリフェス!と僕①
ダイアリー 18/02/24 アミューズ音楽班のオタクが俳優班っていうかKUROFUNEに人生変えられた話
http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2018/02/24/192552

ダイアリー 〜18/03/04 ファーストバースデー

「毎日を明日なきものとして生きる」
って、むかしUVERが掲げてて。僕それすごく好きで。

人生の転機、というものがいくつかあるとしたら、そのうちのひとつがきっかけで僕は本当に早死にしたい派なんだけど、最近それが加速気味。誕生日に早死にしたいと言うのもどうかと思うけど笑、でも、ひとまず目標にしていた(うつ病ドン底のとき自分に課した)30歳というのも、もういいのかなあ、みたいな気持ちになりつつある。
たとえばあした死んだとして。ライブ行きたかったなあとか、仕事の引き継ぎ資料作り終わってないやとか、そういうことはあるとして、それ以外にどんな後悔が残るか。考えたら、目を見て好きと言いたい人がいるし、会いたい人がいるし、行きたい場所がある。

9/10・11が僕のセカンドバースデーで、3/5は僕の生まれた日。
毎年お誕生日とか年末年始には「今年のテーマ曲」みたいなのを決めるんです。
人生のテーマが∠RECEIVERだとしたら、26歳のテーマはKUROFUNEの「Whole New World」。
「永遠でさえ消せはしない輝き」を、積み重ねていきたいなと。
軽率な未来より、その瞬間にすべてを尽くす誠実を積み重ねて、やっと届く明日に。好きなことへの全力を、何度だって積み重ねて、自分という輪郭を愛でかたどっていけたら。
堅実になりたいわけではなくて、ただ、いまよりももっと「いつ死んでもおかしくない」という気持ちで生きていきたい。実際、いつ死んでもおかしくない。だから、僕は幸せは全勝を狙う。明日の朝、目が覚めなかったとしても、幸せ全勝を狙って生きてきた証があれば、許せる気がする。自分をね。

「毎日を明日なきものとして」「幸せ全勝を狙いながら」「一瞬の全力を誠実に積み重ねて」「好きなものや人のところに愛で襲来する」
そんな年になりますように。いうまでもなく、ボーダレスに。あらゆる偏見から自由で、自分の目で虚構を射て、この耳で意志を聞いて。

好きなものが増えて、その分悩みや不安も増えた25歳だった。大きな転機もあった。もういい加減僕もこどもぶっていられない。わかっているけれど、もうすこし。
自分を無条件にゆるしてくれる他人を探す夢ばかりみる近頃。自分で自分をゆるせるようになりたい近頃。

なにより、僕の人生を支えてくれた家族に、友人に、愛している人に、好きな人に、全てに感謝を。大好きな人やものが多すぎて、溺れそうな幸せを噛み締めています。いつもありがとう。