人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー 〜19/12/08 祖父が亡くなったもろもろ

さすがに葬儀屋さんとお話ししたのは初めてでした。そんな、ちょっとした記録みたいなもの。

12/3の早朝、5時前、母の声で起きて、祖父が死んだと聞かされた。
ポルノの東京ドームが終わった数日後に倒れて救急病院へ運ばれてから、3ヶ月くらい。倒れた直後は「一週間もたないだろう」と聞かされていたから、ずいぶん長く最後まで生きてくれたなあと思う。
駆けつけると同時に斎場への移動が済んでいて、僕は、本当に本当にひさしぶりに、目をわずかに腫らした父を見た。

父はめったに泣かない。
友人各位ならご存知かと思うが、僕の父は昭和で価値観がストップしたパワハラモラハラ野郎である。ただ、僕が生まれてからセクハラだけはしないらしい。本当かどうかは僕の知るところではない。
3ヶ月間、いつ亡くなってもおかしくない、とずっとお見舞いに行っていた祖父がいよいよなくなったことと同じくらい、ああ、父でも泣くんだな、という印象が強い朝だった。寒くて、でも晴れていた。移動にはいい気候だった。
冷えた祖父の顔を見て、ひたいに触れ、入院中にずいぶん伸びた髪を撫でた。人は88歳になって、倒れて入院してもなお髪が伸びるのだなあと不思議な気がした。
最後にお見舞いに行ったときに繋いだ手のあたたかさはもう、当たり前だけどなくなっていて、そうか、と、受け止めきれない感情を抱いた。

3ヶ月、長かったような短かったような、だ。
もともと親戚づきあいの多い家だし、祖父母の家にもよく遊びに行っていた。それは社会人になって、うつ病のいちばんひどい時期以外は、ほとんど変わらなかった。僕が最初の会社に入社したとき祖父がその会社の株を買ったときは笑った。そういう人だった。

祖父はアマチュアながら、対戦相手が絶望するほど将棋が強かった。でも85歳くらいから痴呆症が入りはじめて、将棋をさせなくなった。それからの祖父の年をとるスピードはちょっと急速で、3年間かけて僕らは少しずつ覚悟をしていた。だから、倒れたときも亡くなったときも、取り乱すようなことはなかった。
もっともその将棋の才能はひとえに弟が受け継ぎ、僕はからっきしなのだけれど。

倒れる2週間くらい前に、祖父と会って話していたから、妙な後悔はない。
弟は、将棋をさせなくなってから祖父とうまく話せなかったと言っていた。実際に会話をしている時間より、盤越しに、将棋をさしてコミュニケーションをとっている時間のほうが長かったから、と弟は言った。
なんというか、入社が決まったら株を買ったり、僕らが子どものころには、僕らと遊ぶためにビニールプールを買ってみたり、大胆なくせに不器用で、口数が少なくて、気づけば将棋盤の前で日本酒を飲んでいる、そういう人だった。
最後に僕が会った祖父も、僕と祖母がしゃべっている姿を肴にビールを飲んでいた。しきりに僕の仕事の心配をして、でも、今の仕事は楽しいよと僕が言ったから、満足そうだった。笑顔だった、と思う。そういう人だった。

入院中は、いわゆる「意識混濁」状態だった。僕が誰であるかわからないのはもちろん、会話もろくにできなかった。祖父に見えている「だれか」との会話に割って入って、祖父の、もはやうなり声のようなものを聞いていた。目を連続してあけていられるのが15分くらいが限界だったから、その程度の時間だけだったけれど。ほとんど言葉として聞き取れなかったけれど、手を握ったり、それから「けんかしないでね、けんかしないでね」としきりにつぶやくのをなんとか聞き取ったりして、たぶん家族はみんな各々、祖父との時間を過ごした。
祖父母はおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれるのを嫌がったので、祖母のことは名前で、祖父のことは「せんぱい」と呼んでいた。人生の先輩だから、とのことらしい。
だから、けんかしないよ、大丈夫。みんな大好きだよ。せんぱいのことも大好きだからね。聞こえてる?そう言ったのが最後だ。伝わっていたらいいけど。

祖父が亡くなった朝、そのまま葬儀屋さんと打ち合わせをした。喪主は祖母だけれど、祖母はもうだいぶ年配だし、ほとんどの手続きを父がしていた。倒れたとき、1週間もつかどうか、と言われてすぐに葬儀屋の見積もりを取ったらしい。我が父ながら、父も父でそういう人なのだ。

打ち合わせに同席するのはさすがに緊張したけれど、花が好きだったから花は多くしようとか、家族葬無宗教葬だからこうしようとか、いろいろなことに口を挟んだ。その後も何回か、葬儀屋さんとはお話しした。
自分がどんなことを遺書に書けばいいのか、よくわかった。同席させた父の意図はよくわからないけれど、彼なりに、考えるところがあるんだろう。

葬儀までは普通に出勤していたけれど、やっぱり体調はおかしくて、決して元気ではなかった。そりゃそうだ。上司と揉めに揉めて笑、もうだめかもなあと思った。今でも思っている。
でもまぁ、ひとまず、葬儀が無事に終わったから、いいや。

僕は、27歳にしては、改めて喪服を新調する必要がない程度には葬儀に出たことがある。親戚が多いからね。同世代よりはちょっと多いと思う。でも、無宗教葬は初めてだった。これは祖父の強い希望だった。家族葬で、一日葬で、無宗教葬。墓はいらないから、骨はそのへんに撒いてくれ。
とはいえそのへんには撒けないので、このあとまた散骨業者さんと打ち合わせをするんだけれど。

読経もなく、どちらかといえば「お別れの会」に近かった。
黙祷して、焼香して、みんなでおじいちゃんを囲んで話をした。数分だけ、葬儀屋さんが準備をしてくれて、蓋の空いた棺を花と将棋の本、将棋の駒で埋めた。あと、祖父が尊敬していた棋士の扇子も入れた。
僕は桂馬が好きなので、桂馬を祖父の耳元に置いた。桂馬を使うのが楽しくてこだわるばかりに、よく負けていたことを思い出して泣いて、それからしばらく泣いていた。

祖父が骨になるのを待つまでの1時間、控え室でずっと酒を飲んでいた。うちの一族は、父方も母方も本当に酒好きで、すきあらば酒を飲んでいる。悲しみも悔しさも水では溶けないし、流したぶんの涙の補給も水ではできないのだと祖母は言った。人数よりはるかに多い数の瓶ビールと日本酒をあけて、それでも誰も酔わず、祖父の骨を拾いに呼ばれた。

祖父の骨は、大きくて立派だった。斎場の人もびっくりしていた。成人男性用で一番大きなものなんですが、と骨壷を示しながら、どうにかこうにか骨をしまってくれた。こんなにしっかり残っていることはなかなかないです、と。祖母はやっぱり酒を飲んでいたからね、と言って笑った。うちの親族は本当に酒の話しかしない。
170センチあるかないかの人にしては、骨は本当に大きくて立派だったと思う。

そのあと、献杯、と食事をしながら、またやたらと飲んだ。祖父が好きだったから日本酒もあけた。祖母も叔父も飲ませ上手なので、グラスを半分カラにしたら次が注がれる。今日ばかりは断るのも野暮だろうと、無限に飲んだ。なにより、祖父が僕と飲むのをすごく喜んでくれていたことを思い出していた。瓶ビールはあんまり好きじゃないんだけど、昨日のはすごく美味しかった。
斎場のスタッフさんが、ノンアルコールのビールを途中で片付けてくれて、かわりにビールの瓶を増やしたときは笑った。

ごちそうさまをして、そこで祖父の骨と祖母、息子達とその嫁(僕の母さん)が祖父の家に向かった。ここで僕と弟は離脱した。叔父が、また遊びに来てね、と言うから、もちろん!と答えた。祖母はつまみを買ってきてねと言った。
弟と駅まで歩こうか、と外に出ると雨が降っていた。僕が降らせたのか祖父が降らせたのか、雨だった。
斎場の人に、傘を買いたいのだけれど、一番近いコンビニはどこですかと聞いたら、ずっと放置されている傘があるからとビニール傘をくれた。優しい人たちだった。
最後に葬儀屋さんに挨拶をして、この後のことについてすこしだけ話して、傘をさして駅まで歩いた。弟と歩きながら、祖父であれなら父の骨壷はどうしようか、180センチあるから特注の大きなものが必要なんじゃないかと言って笑った。弟に、僕は数年以内に家を出てパートナーと住むと言ったら、弟はそれがいいんじゃん、と言った。彼は本気で四国のお遍路に出たいらしい。我が弟ながら変な奴である。仕事辞めてでも行きたいというので、いいんじゃん、と言った。父と弟は、反抗期をこじらせてからきわめて微妙な…あるいはいびつな関係ではあるのだけれど、僕はいつだって全面的に弟の味方をする、と言っておいた。僕は本気だが、本人がどこまで本気で受け止めたかは知らない。

そのあと、ポルノのディレイビューイングに行くつもりだったけれど、さすがに満身創痍だったみたいで、行けなかった。半分は朝から飲みすぎたせいだと思う。
でもまぁ、そういうこともある。

僕は祖父母そして親不孝ものなので、すきあらば死にたいと思っているし、祖父が亡くなったばかりだというのに職場で上司と揉めて軽く自分に爪を立てたりした。ごめん、と思うけれど、これが自分なので、しかたないのだ。許してもらえるかわかんないけど。

散骨まですこし時間があるから、また日本酒でも持って、祖母の家に行こうと思う。

祖父が倒れた直後にいくつかの約束をドタキャンしたり、ディレイビューイングをキャンセルしたりして、本当に申し訳なかった。友人各位、今度埋め合わせさせてください。
それから年賀状。喪中ハガキを出すことはしないのだけれど(両親と祖母の分を作ったら力尽きた)、届いたら寒中見舞い出すね。

今日は推しを見に行きます。元気出してくる。そしてまた酒を飲む。悲しみは水では溶けないし、元気のチャージにはアルコールが向いているから。