人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー 20/05/19 〜コロナ禍のなかで暇すぎて頭から絞られた、意味もオチもない自己観察

さてなにを書きましょうかねえ。
なにか書きたいと思ってスマホ開くとき、書きたいことはあるけど書く時間的な余裕があるか?とか、なんかいらんことばかり考えてしまうのだけれど。

とりあえずコロナ滅ばないかなあ。最近はそればかり思っている。

コロナど真ん中だった4月が、ちょうど転職のタイミングのモラトリアムだったから、まだよかったけど。でも、3月にあった大事な友人の結婚式をキャンセルさせてもらってまで、2/22から遊びに行っていない。職場と家の往復、たまに病院、決まったスーパーだけだ。あ、一回だけ銀行に行ったな。
そんなんで、家に引きこもって自分ひとりの時間を持ちすぎると、考えなくていいことまでやたらと考えてしまう。やたらと考えたものを、こうやって文字に起こしたりせずに放置するから、頭がパンクしてしまう。

ということで、脈絡なんぞクソくらえで、いろんなことを書く。ああ、友だちと触れ合える距離で会いたい。リモートで会うのもいいけど、やっぱり、ナマがいいよ。僕は。コロナ後には古い人間と言われるのかもしれないけれど、人と会うのも、エンタメも、なにもかも、ナマがいい。

さて、このコロナ禍のなか、自分とのうんざりするようなにらめっこを経て、強く再認識したことといえば……山ほどあるけど、今日書くのは、いかに自分が偽善者であるか、ということだ。さらにいうと強烈なエゴイストでもある。いやマジで、びっくりする。我ながら呆れるレベル。

たとえば、だ。
コロナ禍のもと、いろんな業界からいろんなSOSが出された。給食がなくて牛乳が売れない、とか、家にいられない子どもの支援、とか。そういうやつね。
目につく限り、全部に手を出した。ぜんぶ、こどものお小遣いから頑張って出したのかな?みたいな少額なんだけど。いま、うちにはフードロス対策で購入したお菓子や冷凍食品、それから山のような牛乳が溢れている。あと、寄付した団体からのメールや手紙もある。ないのは僕の貯金だけである。もともとないけど。
ここで大事なのが、僕のこの行動は、優しいとか、貢献とかなんかそういう純粋な感情に基づいて行われてはいないということだ。

昔話だけれど、僕が年金を納めないといけない年齢になったとき、僕は学生で、年金納付の猶予制度があった。それになにより、僕はもうあまり国の年金制度を信頼していなくて、払ったのと同額もらえるかさえ疑っている。
だから、学生であるあいだは払わず猶予あるいは免除するつもりだ、と親に言った。
母は、しおりが決めることだからねと言ったけれど、父はそこで、「なら俺が払う」と言った。
僕は嘘でしょ、どうせ戻ってこないし、制度として免除できるんだよ、とかなり強く抗議した(当時は今よりもっと国の福祉制度を信頼していなかった)けれど、父は払うと言って聞かず、結局僕が就職するまでの年金をすべて払ってくれた。返せとも言われていない。そしてたぶん、知らんけど、あの金は将来僕らの手元に満額戻らないだろう。知らんけど。
そのとき父が言った、「自分のために払うものじゃない」という言葉を、僕は妙に覚えている。
そりゃそうなんだよな。いま年金を払われないことで困るお年寄りがいることは確かだ。我々が払いたいかどうか、そして払うかは別として。

そういえば東日本大震災のときも、父は問答無用で家族名義で人数分の額を寄付し、私たちはもう子供産むわけじゃないしねと、母とよく福島産のものを食べていた。
たぶん父は「他己の利」って言ったんだと思う。辞書に明確な答えがないし、たぶん本人が覚えていないから、わからないけれど。
他己っていうのは、他者が捉えた自分のことだ。他己分析とかって使い方をする言葉。他者が捉えた自分にとっての利益?と、今でもわからないけれど、たぶん「情けは人の為ならず」的発想なのだと思う。
両親ともに、昔からそういうところがある。父は寄付やなんかで、母はある種の無償労働で。他人に自分の持ちうるものを与える。なんの嫌味もなく、当たり前のように。特に母は、それが人生のデフォルトに組み込まれているタイプの人だ。金銭というよりは行動で。嫌いにならない限り、どんな人にでも愛情を持つことができて、感動屋さんで泣き虫で、我が母ながら人徳者だと思う。似なかったなあ。

そういう両親に影響されて、僕は昔から他人に何かを「ほどこす」側になることには全く抵抗がなかった。日常的に募金箱にお金を入れること、ペットボトルのキャップはワクチンになるよ!の箱に捨てること。赤い羽根募金や、駅で立って募金している人の箱に小銭を入れるとか。そういうのはわりと、僕にとっては当たり前のことだった。
中学生で、地域の合唱団に所属していたとき、地域の人向けに無料のコンサートを開くことになったことがある。そのときすかさず「募金箱に、感動したぶんだけお気持ちを入れてくださいって書いて、それをぜんぶユニセフに寄付しよう」と言って実行したのが、能動的なことのたぶん最初じゃないかなあ。

でも、ここが悲しいところなんだけど、慈しみとか優しさとか、神や天使がなにかを「与える」「ほどこす」みたいな感情にはならない。完璧に、いっそ気持ちいいほどの「自己満足」だ。そういう側であることと、そういう高尚な気持ちを抱けることは別物である。
本当にその金が役に立っているのか?たとえばユニセフだったら、僕は現地に行くわけでもないし、内部に知り合いがいるわけでもないから、確かめられない。でも、まぁ、役には立っているだろう。たぶん。
その行為は本当にひとのためか?と問われたら、そもそも人のためになど動いていない、と答える。ここが、僕と両親の最大の違いだ。

寄付やボランティアやなんかそのへんに類する行為は、すべて自分のために行なっている。

だって誰にも叱られない。たとえば自己満足や自己肯定感がほしくて何か行動しても、それが120%賞賛されることってめったにない。少なくとも僕には思い浮かばない。寄付くらいしか。

寄付もボランティアも、そういう類のものは、自分の金や時間や労働力を勝手につぎ込むだけだ。誰の迷惑にもならない。少なくとも誰かの役にはたつはずだろうという憶測に基づく、役に立った〜〜!という、自己満足。おわり。最高である。

こんな汚い根性でものを寄付したり、消費行動をおこすのは、本当に慈しみながら使命感を持って活動している人に失礼ではないか、と自分でも思う。
でもそんな僕を救済する言葉すらこの世にはあるのだ。「やらない善よりやる偽善」。ユニセフも、僕がよくする寄付先も、全く問題を指摘されない完璧な団体ではない。フェアトレードなんか、むしろ(やりかたによっては)叩かれていた時期すらあると認識している。でも、やらない善よりやる偽善、なのだ。なんていい言葉だろう!と、思ってしまう自分の汚さよ。

僕のそういう汚い部分が、コロナ禍では存分に発揮された。
フードロスと名のつくものの購入。いろんな団体への寄付。コロナで困っているところからの商品の購入。なんならそういう情報を積極的に拡散して、それを見た誰かが買うだけで、誰かに感謝される。誰にも迷惑はかからない。せいぜいTLが僕のRTで埋まるくらいだ。自己満足、エゴ、どんな呼び方もできると思う。自己肯定感を自足自給できない僕の、人に迷惑をかけずに自己肯定感を得る、数少ない方法だ。
いまなんか、お店にテイクアウトを取りに行くだけで感謝されちゃうのだ。なんということだ!しかもご飯を作る手間から解放される。いいことしかない。最高。それが自分にとって居場所のような店ならなおさら最高だ。

意地汚いと自分でも思うのだけれど、やめられない。やめられないし、なにより、上述のように、そういうことをするのがわりと当たり前の家で育ってきた。両親や弟とメンタリティは違うけど。
でかい規模の寄付に限った話じゃない。父は仕事や、母はご近所さんとの付き合いの中で。日頃の買い物のしかたひとつで。なにかに貢献する両親を尊敬するし、そういうことを当たり前だと思える経済的、精神的な余裕がある家庭に育ったことに感謝している。ほんとうに。でも、僕のはちょっと、意地きたない。
だから、ごめんね、という気持ちも、なくはない。僕の自己満足に利用されてくれてありがとう、ごめん。感謝のメールなんかいらないんだよ、とさえ思う。
これがエゴで偽善にすぎないことなど、自分がいちばんよくわかっているから。

寄付やフードロスを購入する話に続けると、もともと無意識だった(あえて言語化する必要もなかったんだと思う)消費行動についても思い当たった。
性別欄に「そのほか」があるメーカーの商品を優遇するのはもともと公言しているし、それは変わらないけれど、それ以外もなんだな、と、改めて頭の中で文字に起こされた。
ジェンダーセクシュアリティについては、僕はかなり能動的に動くほうだし、それを言語化して拡散する意義があると、当時判断したんだろうね。今も賛成。
だからこういう買い物の仕方も、何年も前からやってたんだと思うけど。

例えが難しいから、具体的な企業名を出してしまうけれど、僕は「同じ金額」で「同じ量」の「ほぼ同質」な緑茶が並んでいて、ひとつ買ってと言われたら、伊藤園お〜いお茶を買う。
そりゃ、お金ないから金額が違うなら安いほうを買うし、とびきり好きな味があるならそっちを買うけれど。
なんで?って聞かれたら、伊藤園は毎年やってるおにぎりアクションのメインスポンサーだからだ。「おにぎり Table For Two」で詳しくはググって。
おにぎりの写真をSNSに載せると、それが貧困国の子どもの給食として寄付される。僕らは写メを載せるだけでいい。スポンサーが負担してくれるからね。
で、お〜いお茶とおにぎりの写真を撮ったら額が増えるっていうのがある。それを知ってから、お茶はお〜いお茶派になった。それだけで自己満足だ。だってお金ないから今年はおにぎりアクションやりませーんって言われたら、僕の自己満足にならないから困るし。
そういうふうに商品を選ぶこと、めちゃくちゃいっぱいある。あとは地元の会社を贔屓しがち。今も牛乳は、埼玉の給食でよく飲まれるメーカーから、箱で取り寄せているし、すーぱーでみかけたら買う。わたしとぼくの森牛乳を愛している。チョコレートやコーヒーならフェアトレードと書いてあるやつを買うし、などなど。

性差別的、人種差別的なコマーシャルをした商品は買わなくなる。そのメーカーごと、購入範囲から外す。めったなことがないと買わない。

板チョコ買うときは裏面を見る。WFPって書いてあるやつを買う。水も、特定の期間はヴォルビックばっかり買う(寄付になる)。安さ優先なのは前提なのだけど、付加価値として、これを買えば寄付になりますよ〜とか、この会社はアンケートの性別欄にその他がありますよ〜〜とか、そういう商品を積極的に選ぶ、そういう癖みたいなのがついている。そうやって選んだ商品を使ったり食べたりしているとき、僕の自己肯定感はちょっとだけ上向く。

だからなに?って言われちゃえば終わりだ。それは僕が、金銭的に大きな困難を抱えていない家庭に育ったからできることだろと言われたらその通りだとしか言えない。寄付もどきにしろ買い物にしろ、ほんとうにこの話にオチはない。
ただまぁ、だれか同じ感覚で買い物している人がいたらいいなぁとか、これどっかの企業の偉い人が読んで自社で寄付系動いてくれないかなあとか、なんか、そういう下心だけがある。

こうなると地元のきたなトランの話もしたくなるけれど、それは別の記事にしよう。