人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

あなたに殺されたいだけの人生 うつろ[虚]のまこと[真]を見て語らずにいられなくなったナルシズム

うつろ[虚]のまこと[真]という舞台を観てきた。もっとシンプルに現代版の浄瑠璃なのかと思っていたら、「いかにしてこの浄瑠璃は書かれたのか」という、近松門左衛門の話だった。その中で物語が描かれる。僕の目当ての戸谷公人さんが出演してるのは、曽根崎心中をモチーフにした部分、「名残之章」。

以下、ネタバレをふわっと含む自分語りです。乾燥と呼ぶには愚かで、レポとはとても呼べない、ナルシスティックな自分語り。なんでも許せる人だけお読みください。なんてったって自分語りなので。
ネタバレを含みます。

 


***

 


初恋のときからずっと夢みていること。これを夢と呼んでいいのかはわからないけれど、僕は好きな人にゆるされたくて生きている。
生まれて初めて恋をした当時、くりかえしみた夢がある。その子の膝に縋り付いて、ない罪のために必死に謝る夢。ごめんなさい、ごめんなさい、そうひたすらに言いながら号泣してその人のスカートから出た膝を濡らす僕に、夢の中で彼女は決まって言った。「いいよ。ゆるしてあげる」
今でもたまに、全く同じ夢をみる。白昼、脳裏をよぎることもある。相手はそのときとは違う。顔も見えないだれか、誰かにゆるされたくて生きている。いや、生きているというか、ゆるされたくて、日々、死にぞこなっている。


自覚したのがいつだか覚えていないけれど、僕はとにかく自己肯定感が低い。ないに等しい。自分を褒められるのは苦手、というわけではないけれど混乱する。これはもう一種の脳の病気だけど。
自分とは切り離すことができるという理由で、自分の書いたものを褒められるほうがはるかに納得できる。あれは確かに僕が書いたものだけれど、僕自身ではないから。言霊は切り離される。
近松門左衛門がどうだったのかは知らないけれど、都合よく解釈させてもらうなら、彼もきっと、自分自身ではなくて、彼の書いたものを愛され信頼されることではじめて、それを受け止めることができたのではないかと思う。彼は彼の言霊に矜持を持っていたから。それは僕もそうだ。僕は文章を生業にはしていないし、ただ(病的に)文章を書かずには生きていられないというだけだけれど。それでも僕は僕の込める言霊には絶対に力があるし、それを届ける文章を書けるとも自負している。思い上がりで結構だ。だけれど、同時に、その文章に価値は内在しない。人にこれは価値だと言ってもらって、はじめてそこに価値が生まれる。
どんなに美しい宝石でも、それを求める人がいなければ無価値だし、川辺の石ころも、そこに価値を見出す人がいれば価値ある石になる。
僕は(僕の解釈において、近松門左衛門と僕は)、僕たちの書くものに、言霊に、絶対的な矜持を持っている。それはほとんど意地と同じで、汚らしいほうの意地だ。同時に、自分がそこにどれだけ言霊を込めても魂を込めても、そこに価値を見出してくれる人がいない限り、価値が発生しないことも知っている。というか、それが現実だと思い込んでいる。

近松門左衛門には、義太夫がいた。
義太夫浄瑠璃小屋の主人で、話の中で、どれだけ義太夫近松門左衛門の「言霊」に惚れ込んでいるか繰り返す。そして、頼むから作品を書いてくれと頭を下げる。僕が気持ちよかったのは、義太夫近松門左衛門自身に惚れてはいないことだった。あくまで彼の書く言葉に、彼の紡ぐ物語に惚れていた。だからこそ、正面切って言えたのだろう。おまえとやりたい、と。
そして近松も、自分の人格でもなんでもなく、自分の言霊を信頼している人の言葉だから、聞く耳を持ったのだと思う。「おまえの言霊に惚れた」という「言霊」によって、彼は書いたのだ。僕には、あの2人はそう思えた。
近松が、羨ましかった。自分の文章を、言霊を、必要とされることが。その喜びが。一瞬ではなく。上っ面ではなく。何年も何年も、惚れ込まれ続けていることが。自分の言霊に酔う人がいると、信じられるほど、素晴らしい作品だと伝えてもらえることが。

僕はいつだって愛されたい。でもどう愛されたらいいのかわからない。だからせめて僕のエゴを受け入れてほしい、好きと言わせてほしい、そう思っている。愛することを許してほしい。今じゃなくていい、いつか誰かが僕の言霊で心軽くする日がきますように。いつか誰かが、僕の言霊の花束を抱きしめてくれますように。僕は僕に持ちうるすべての言霊と愛を言霊という花束に込めて振りまいて、振り回して、押し付けている。たぶん死ぬまでそうだろう。近松と僕が違うのは、それを欲されているかいないかの違いだ。
近松門左衛門は、義太夫がいたから、書けた。きっと近松はそれを認めないだろうけれど、あるいは無自覚かもしれないけれど。愛によってしか生まれない言霊というのは、確かにあるのだ。

僕の夢のなか、ゆるされたくて縋る膝はいつだってつるんとうつくしくて、コツンと骨に当たって、妙だ。痛くはない。でもけっしてやわらかくもない。
僕の敬愛するギタリストが込めた歌詞に「生まれ落ちた罪 生き残る罰」というフレーズがある。僕は、まさしくそれを背負っている。生まれてすみません、と太宰治のように思っている。生まれた罪を強制的に償うのが人生だ、それが生まれてしまった僕に与えられた罰なんだ。そう本気で思っている。
だから、ゆるされたくて仕方がない。
何かをしたとかではなく、僕が生まれ持った罪をゆるされたい。ただ圧倒的な赦しがほしい。肯定されて、ゆるされたい。ゆるされるために、僕はしばしばものを利用する。たまには他人の感情さえ利用する。そのあと落ち込むけれど。ただでさえ罰を生きているのに、そのうえにさらに何か被せられると本当に身動きが取れなくなる。生きているだけで申し訳ないのに。
できることなら愛している女性の膝にすがって赦しをこいたい。神様か女神様かなんだって構わない。生きていることを許してほしいと思う。何もできない僕を。頭が悪くて見た目が悪くて取り柄がなくて、騙されてばかりで、金持ちでもなくて、ないものばかりの僕を、それでいいのとゆるしてほしい。……その罪を終わらせるために、一緒に死んでくれる女神様をずっと探している。だけれど同時に女神様を殺したくはなくて、だから僕の恋はいつも未遂、未完で終わってしまう。終わらせてしまう。

大好きな俳優である戸谷公人さん曽根崎心中。しかも徳兵衛。マジかーって思ってた。曽根崎心中の筋書きはみなさんご存知の通りだと思うけれど、簡単に言うと心中だ。そのまんまだ。友人に裏切られて罪人に仕立て上げられた優男と、廓に縛り付けられた女が、恋のために死ぬ。それだけの、シンプルな話。
曽根崎心中が演じられているとき、友人に裏切られて街を追われ、見つかれば罪人として罪を問われることになった徳兵衛を見たとき、僕はその姿に、愚かながら自分を重ねた。勝手に。(戸谷さんは役に「なる」ことができる人だから、もはや徳兵衛さんと呼んでしまう)。
生きているだけで、罪に問われる。彼は僕みたいな生まれつき原罪を抱えていた人ではないけど、そうなってしまったのだ。
そんな彼が身を隠して必死に、恋人、お初の働く廓へやってくる。そこで、彼女は徳兵衛をかくまい、足元に隠しながら、徳兵衛に罪を着せた友人に対して一歩も譲らぬ愛を見せつける。徳兵衛はお初の足元に隠れ、縋るように彼女の脚を抱き、その脛でぽろぽろと涙を流している。まるで、足の甲に口付けるみたいに。女王様に誓うように、あるいは、赦しへ感謝するように。
羨ましかった。
さっきまで勝手に投影していた自分が、そこにはもういなかった。僕はあんなふうに、足に縋り付いて泣いて許してもらうことをずっとずっと救いみたいに頭に描いているのに、それをまだしてもらったことがないから。
僕も徳兵衛と同じで、結婚したいと思った女の人がいる。結ばれたいと。だけど徳兵衛たちと同じで、社会的にそれはちょっと難しい。彼らは江戸時代という身分格差と家柄において、僕らは戸籍の性別において。そのひとと夜眠るときに、その人の手を取って、僕の首を絞めてくれと頼んだことがある。その人は首を振って代わりに僕の額にキスをして、手を優しく解いて頭を撫でてくれた。殺されたいと、手を強く握っていたはずの僕の手に力は入らなかった。その人のその愛はたしかで、僕はそれが嬉しくて、撫でてもらう髪の優しさに溺れるみたいに、あるいは砂に埋まるようにその日は眠ってしまった。同時に、殺されたいと縋ってしまう自分の罪について考えた。愛した人に殺してくれと頼んで断られるのも、生きてほしいと好きな人に言われるのも、僕の人生の罰なのだ。きっと。

徳兵衛は、完遂した。というか、お初がそれを完遂させた。徳兵衛が本当はどんな男だったのか僕は知らない。でも、羨ましかった。「愛おしいお前を殺せるか」と嘆きながらも、それをさせてくれる人と出会え、その人を殺し、自分も死ねたことが。心の底から羨ましいと思った。

観劇し終わって、気づいたら頬がカピカピになっていた。目を触ったら濡れていた。どうやら泣いていたようだ、と思いながら、呆然としていた。階段を降りながら、笑いが止まらなかった。今夜僕がこのまま好きな人に会いに行くことがゆるされるなら、殺してほしいと思って、笑った。叶わないのは重々承知だ。

あと何回か見に行くけれど、女の足に縋り付いて許しを請い、そして許されて死んでいく徳兵衛を、僕は直視できるかわからない。徳兵衛の涙が震えるほど美しいからというのもある(戸谷さんのお芝居が素晴らしい)けれど、なによりも、羨ましさで、観劇したあと1人になったら、僕が何をしてしまうか、自分でもわからない。
でもおとなしく電車に揺られて家に帰るのだろう。そしてきっとまたあの夢をみる。