人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー 〜18/06/25 次の休みは部屋を片付ける

ここしばらく職場でコンビニ飯かナンジャタウンフードファイトか自宅でウィダーインゼリーしか食ってなかったので、ひとにごはんをつくってもらって食べるというのを久しぶりにしたのだけれど、すごく美味しくて感動さえした。もともと外食が多い家だし余計かもしれないけど、「外食より家で食べるご飯が好き」って育つ子はああいうごはん食べてるんだなあと。食リポのセンスがないので「おいしい!!!おかわり!!!」しか言えなかったけど。いま思い出して電車の中で泣きそうになっている。
あれって他人に対する無条件の肯定に近いのだなと思った。いや僕が家でご飯食べられない子なわけではないし僕は母親の作る煮物が世界でいちばん美味しいと思っているけれど、好き嫌い多くて迷惑かけたんだろうなとか、いろいろ考えた。ひとは勝手に大きくなるわけじゃない。産んでくれてありがとう、も育ててくれてありがとう、も今の僕にはすこし難しい言葉だけれど、たしかに愛されているのは体が覚えているものだなあ、などと……。

ここ数ヶ月の僕の荒れっぷり(?)というか、自傷の強さと薬の増え方を見たらまぁちょっと疲れていることは明白で、自分でもなんとかしないとなあと思いつつ何もできてなかったんだけど、こうすりゃいいのか、と思った。できるかは別としてよ。
「眠って回復するための体力すらない」というのは本当にその通りだなあと。どんなに栄養ドリンクが栄養満点でも体力が満ち満ちたりはしないよなーと思うなどした。

オチがない。…いつもか。

運命とか縁なんてタイミングの言い換えでしかないと思っているのだけれど、そのタイミングがあまりにもジャストだった出会いのいくつかに、自分がどれだけ支えられてきたのか、改めて思った。叱られたり指導されるのではなくてただただ慈しまれること、好きにしていいよ、と愛情こめてほったらかしにしてもらえること、その効能。

なにかを考えたようであまりなにも考えていなくて、ただ自分に対する罪悪感や自責に駆られて自分で自分を引きちぎることなく、おなかいっぱいだなあ、ねむいなあ、とふわふわしていられることの幸福さみたいなものを感じる今です。僕の思考は言語の支配下にあるし(もちろんその上に感情があるんだけど)、言霊が僕の味方であると確信しているくせに、自分に向けてナイフを振り回して自分で勝手に痛がるの、不毛だなあと思った。しんどいときはしんどいって言わないと辛さ倍増しちゃうけど、たしかにことばにそれを込められる(操ったりはできない。あれは込めるもの、効果は内在しない)自信があるからこそ、せめて自分にナイフ突きつけるのはやめようと思った。少なくともやめるように心がけようと思う。

これは他者に肯定してもらいたくてあえて書くけど、僕、倒れた日から、THE DAYの日から、後退なんかしてないよね。前進ちゃんとできてるよね。ときどきいまみたいに給水タイムが必要になるけれど、それも前進の過程だよね。そう信じていいよね。
あしたから、もうすこしだけ生きててもいいよね。いいって言って。笑  背中が丸まってるから、まず、背筋を伸ばそう。

ほんとうに人生には愛と感謝しかないですね、って伝えておいてください。あの日言われた言葉の意味が、日に日にきちんと体得できている気がします。まだまだはじっこだけだけど。すくなくとも、おおきな愛という布のはじっこにしがみついているつもり。