人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー未満 〜18/05/26 生まれ落ちた罪と生き残る罰、愛されたいと願うたび表情を変える世界について

きのうインディゴトマト🍅見てからいっぱい考えてるんだけど、僕にとって「ゆるす」「ゆるされる」がすごく大きなテーマで、そこを基準に物語見てたんだなって改めて思った。居場所、があることの羨ましさのようなもの。なにもなくても僕が僕で生きてりゃいいと言ってほしいと信じさせてほしいとすごく強く思うけど、言ってもらっても僕はそれをうまく信じることができるほど自己肯定感がない。だから悲しいなと思う。
いや、僕にだって居場所や愛をくれる人はいるんだよ、ありがたいことに。感謝しかないし、その人たちにはたくさん花束押し付けて死んで生きたいと思う。そしてもちろんあらゆる人からもらう僕に向けての肯定的なことばや行動は大事にとっておきたいしいつだって僕を許してくれるから、ありがたいなと思うし、やっぱり僕からだって贈り返したい。

でも自己肯定感がはちゃめちゃに低いもんでさ。だからこそ「書いたもの」であるとか「した行動」みたいな、自分には属しているけれども自分からは切り離すことができるものへの肯定のほうが強く受け取れるんだよなーっていうのはある……のかもしれないなあ、とか思ったりして。まるごと愛してもらっている、とわかっていてもよ。
何か僕に突出した能力や天才的なものがあったりして、いろんな人にチヤホヤしてもらえたらいいのに、とたまに(26歳になった今でも)思ってしまうのはそういうことなのかな。ちやほやされているとき、なんとなく浮ついて許された勘違いができるから。

ただ、もっとうまく受け取れないのかな、って自分に対して責めたくなるだけ。自分がうまくできないの。

でも許してほしいって気持ちは、僕が「勝手に」生まれながらに生きていることへの罪を背負っていることからうまれているし、それは僕が「勝手に」自分に課したものだから、それを誰かに許してほしいと思うなんて身勝手極まりないわがままなのだよなあ、とも思う。ぜんぶ本当に身勝手だ。
でも生まれ落ちた罪生き残る罰、というのは僕にとってはなまなましいリアルで、苦しいし、生きづらい。

ただでさえそこそこ生きづらい初期型スペックなのに、そんななかでも生きづらさをすこし溶かしてくれるのは、用事があるときだけじゃなくて毎日ちょっとずつラインするとか、そういうこと。そういうことで僕はへろへろになるくらい許されていく感覚みたいなのを得られるし、ツイッターではいた弱音に誰かが構ってくれるだけで僕は少し救われるから、SNS時代生まれでよかったなーと思う。
でも同時に「からだにさわる(てをつなぐ)」とか、「目と目をちゃんと見る」とか、「手紙を書いてくれる」とか、「会いに行く/来てくれる」という行為から得る許しはすごくて、そういうひとつひとつの記憶や文字にすがってやりすごさないといられない夜とかもあって、ときどき生きてるのしんどい。そういう許しに依存してしまいたくなることすらある。……結局僕が「自分は生きていてもいい、ここにいてもいい、生きていてもいい」と思うその肯定感(ゆるし)すら、他人に依存しないと得られないものなのかもしれない。と思うとすこし怖いけど、納得もできる。僕がどうしてこんなに人が好きで、好きな人に自分の言葉だけ押し付けて愛していると無理やりにでも告げたいのか。つじつまが合う。

せめて好きと言われたらそれを信じられるくらいの自己肯定感は欲しい。
もちろん嬉しいし大事にするしその人たちにたくさん返したいと思うけど。でももっとちゃんと受け止めて抱きしめられるはずなのになあと。自己肯定感金で買えたらいいのに。そのくせ人のことは愛したがるから面倒な人種だよな僕……

……ごめんSNS時代生まれは盛った。Sanrio tiny parkからHTMLホムペ!時代を超えたパソコンと同期くらいです。