人生のスタンプラリー

人生のスタンプラリー認定協会埼玉支部

ダイアリー 〜19/12/08 祖父が亡くなったもろもろ

さすがに葬儀屋さんとお話ししたのは初めてでした。そんな、ちょっとした記録みたいなもの。

12/3の早朝、5時前、母の声で起きて、祖父が死んだと聞かされた。
ポルノの東京ドームが終わった数日後に倒れて救急病院へ運ばれてから、3ヶ月くらい。倒れた直後は「一週間もたないだろう」と聞かされていたから、ずいぶん長く最後まで生きてくれたなあと思う。
駆けつけると同時に斎場への移動が済んでいて、僕は、本当に本当にひさしぶりに、目をわずかに腫らした父を見た。

父はめったに泣かない。
友人各位ならご存知かと思うが、僕の父は昭和で価値観がストップしたパワハラモラハラ野郎である。ただ、僕が生まれてからセクハラだけはしないらしい。本当かどうかは僕の知るところではない。
3ヶ月間、いつ亡くなってもおかしくない、とずっとお見舞いに行っていた祖父がいよいよなくなったことと同じくらい、ああ、父でも泣くんだな、という印象が強い朝だった。寒くて、でも晴れていた。移動にはいい気候だった。
冷えた祖父の顔を見て、ひたいに触れ、入院中にずいぶん伸びた髪を撫でた。人は88歳になって、倒れて入院してもなお髪が伸びるのだなあと不思議な気がした。
最後にお見舞いに行ったときに繋いだ手のあたたかさはもう、当たり前だけどなくなっていて、そうか、と、受け止めきれない感情を抱いた。

3ヶ月、長かったような短かったような、だ。
もともと親戚づきあいの多い家だし、祖父母の家にもよく遊びに行っていた。それは社会人になって、うつ病のいちばんひどい時期以外は、ほとんど変わらなかった。僕が最初の会社に入社したとき祖父がその会社の株を買ったときは笑った。そういう人だった。

祖父はアマチュアながら、対戦相手が絶望するほど将棋が強かった。でも85歳くらいから痴呆症が入りはじめて、将棋をさせなくなった。それからの祖父の年をとるスピードはちょっと急速で、3年間かけて僕らは少しずつ覚悟をしていた。だから、倒れたときも亡くなったときも、取り乱すようなことはなかった。
もっともその将棋の才能はひとえに弟が受け継ぎ、僕はからっきしなのだけれど。

倒れる2週間くらい前に、祖父と会って話していたから、妙な後悔はない。
弟は、将棋をさせなくなってから祖父とうまく話せなかったと言っていた。実際に会話をしている時間より、盤越しに、将棋をさしてコミュニケーションをとっている時間のほうが長かったから、と弟は言った。
なんというか、入社が決まったら株を買ったり、僕らが子どものころには、僕らと遊ぶためにビニールプールを買ってみたり、大胆なくせに不器用で、口数が少なくて、気づけば将棋盤の前で日本酒を飲んでいる、そういう人だった。
最後に僕が会った祖父も、僕と祖母がしゃべっている姿を肴にビールを飲んでいた。しきりに僕の仕事の心配をして、でも、今の仕事は楽しいよと僕が言ったから、満足そうだった。笑顔だった、と思う。そういう人だった。

入院中は、いわゆる「意識混濁」状態だった。僕が誰であるかわからないのはもちろん、会話もろくにできなかった。祖父に見えている「だれか」との会話に割って入って、祖父の、もはやうなり声のようなものを聞いていた。目を連続してあけていられるのが15分くらいが限界だったから、その程度の時間だけだったけれど。ほとんど言葉として聞き取れなかったけれど、手を握ったり、それから「けんかしないでね、けんかしないでね」としきりにつぶやくのをなんとか聞き取ったりして、たぶん家族はみんな各々、祖父との時間を過ごした。
祖父母はおじいちゃん、おばあちゃんと呼ばれるのを嫌がったので、祖母のことは名前で、祖父のことは「せんぱい」と呼んでいた。人生の先輩だから、とのことらしい。
だから、けんかしないよ、大丈夫。みんな大好きだよ。せんぱいのことも大好きだからね。聞こえてる?そう言ったのが最後だ。伝わっていたらいいけど。

祖父が亡くなった朝、そのまま葬儀屋さんと打ち合わせをした。喪主は祖母だけれど、祖母はもうだいぶ年配だし、ほとんどの手続きを父がしていた。倒れたとき、1週間もつかどうか、と言われてすぐに葬儀屋の見積もりを取ったらしい。我が父ながら、父も父でそういう人なのだ。

打ち合わせに同席するのはさすがに緊張したけれど、花が好きだったから花は多くしようとか、家族葬無宗教葬だからこうしようとか、いろいろなことに口を挟んだ。その後も何回か、葬儀屋さんとはお話しした。
自分がどんなことを遺書に書けばいいのか、よくわかった。同席させた父の意図はよくわからないけれど、彼なりに、考えるところがあるんだろう。

葬儀までは普通に出勤していたけれど、やっぱり体調はおかしくて、決して元気ではなかった。そりゃそうだ。上司と揉めに揉めて笑、もうだめかもなあと思った。今でも思っている。
でもまぁ、ひとまず、葬儀が無事に終わったから、いいや。

僕は、27歳にしては、改めて喪服を新調する必要がない程度には葬儀に出たことがある。親戚が多いからね。同世代よりはちょっと多いと思う。でも、無宗教葬は初めてだった。これは祖父の強い希望だった。家族葬で、一日葬で、無宗教葬。墓はいらないから、骨はそのへんに撒いてくれ。
とはいえそのへんには撒けないので、このあとまた散骨業者さんと打ち合わせをするんだけれど。

読経もなく、どちらかといえば「お別れの会」に近かった。
黙祷して、焼香して、みんなでおじいちゃんを囲んで話をした。数分だけ、葬儀屋さんが準備をしてくれて、蓋の空いた棺を花と将棋の本、将棋の駒で埋めた。あと、祖父が尊敬していた棋士の扇子も入れた。
僕は桂馬が好きなので、桂馬を祖父の耳元に置いた。桂馬を使うのが楽しくてこだわるばかりに、よく負けていたことを思い出して泣いて、それからしばらく泣いていた。

祖父が骨になるのを待つまでの1時間、控え室でずっと酒を飲んでいた。うちの一族は、父方も母方も本当に酒好きで、すきあらば酒を飲んでいる。悲しみも悔しさも水では溶けないし、流したぶんの涙の補給も水ではできないのだと祖母は言った。人数よりはるかに多い数の瓶ビールと日本酒をあけて、それでも誰も酔わず、祖父の骨を拾いに呼ばれた。

祖父の骨は、大きくて立派だった。斎場の人もびっくりしていた。成人男性用で一番大きなものなんですが、と骨壷を示しながら、どうにかこうにか骨をしまってくれた。こんなにしっかり残っていることはなかなかないです、と。祖母はやっぱり酒を飲んでいたからね、と言って笑った。うちの親族は本当に酒の話しかしない。
170センチあるかないかの人にしては、骨は本当に大きくて立派だったと思う。

そのあと、献杯、と食事をしながら、またやたらと飲んだ。祖父が好きだったから日本酒もあけた。祖母も叔父も飲ませ上手なので、グラスを半分カラにしたら次が注がれる。今日ばかりは断るのも野暮だろうと、無限に飲んだ。なにより、祖父が僕と飲むのをすごく喜んでくれていたことを思い出していた。瓶ビールはあんまり好きじゃないんだけど、昨日のはすごく美味しかった。
斎場のスタッフさんが、ノンアルコールのビールを途中で片付けてくれて、かわりにビールの瓶を増やしたときは笑った。

ごちそうさまをして、そこで祖父の骨と祖母、息子達とその嫁(僕の母さん)が祖父の家に向かった。ここで僕と弟は離脱した。叔父が、また遊びに来てね、と言うから、もちろん!と答えた。祖母はつまみを買ってきてねと言った。
弟と駅まで歩こうか、と外に出ると雨が降っていた。僕が降らせたのか祖父が降らせたのか、雨だった。
斎場の人に、傘を買いたいのだけれど、一番近いコンビニはどこですかと聞いたら、ずっと放置されている傘があるからとビニール傘をくれた。優しい人たちだった。
最後に葬儀屋さんに挨拶をして、この後のことについてすこしだけ話して、傘をさして駅まで歩いた。弟と歩きながら、祖父であれなら父の骨壷はどうしようか、180センチあるから特注の大きなものが必要なんじゃないかと言って笑った。弟に、僕は数年以内に家を出てパートナーと住むと言ったら、弟はそれがいいんじゃん、と言った。彼は本気で四国のお遍路に出たいらしい。我が弟ながら変な奴である。仕事辞めてでも行きたいというので、いいんじゃん、と言った。父と弟は、反抗期をこじらせてからきわめて微妙な…あるいはいびつな関係ではあるのだけれど、僕はいつだって全面的に弟の味方をする、と言っておいた。僕は本気だが、本人がどこまで本気で受け止めたかは知らない。

そのあと、ポルノのディレイビューイングに行くつもりだったけれど、さすがに満身創痍だったみたいで、行けなかった。半分は朝から飲みすぎたせいだと思う。
でもまぁ、そういうこともある。

僕は祖父母そして親不孝ものなので、すきあらば死にたいと思っているし、祖父が亡くなったばかりだというのに職場で上司と揉めて軽く自分に爪を立てたりした。ごめん、と思うけれど、これが自分なので、しかたないのだ。許してもらえるかわかんないけど。

散骨まですこし時間があるから、また日本酒でも持って、祖母の家に行こうと思う。

祖父が倒れた直後にいくつかの約束をドタキャンしたり、ディレイビューイングをキャンセルしたりして、本当に申し訳なかった。友人各位、今度埋め合わせさせてください。
それから年賀状。喪中ハガキを出すことはしないのだけれど(両親と祖母の分を作ったら力尽きた)、届いたら寒中見舞い出すね。

今日は推しを見に行きます。元気出してくる。そしてまた酒を飲む。悲しみは水では溶けないし、元気のチャージにはアルコールが向いているから。

 

ダイアリー 〜19/11/19

芳香剤が臭い。
我が家の主導権ならびに決定権はすべて父にあり、どれだけ腹が減っていても父が優先だし、風呂に入っていても父が帰宅して入ると言えばすぐに上がらなければならない。入り直す必要があることさえある。なので嗅覚がぐらぐらするような芳香剤がリビングに置かれていたり、たまに僕のアウターになにか香りのすごいものがぶちまけられていたとしてもそんなものは受け流さなければならない。
父のことは尊敬しているしすごく好きだけれど、父ファーストすぎてたまに家を出たくなる。出られたらいいけど金も自殺しない意思もないので出られずにいる。

サッカー日本代表が大敗しているので見るのをやめた。
今日、僕は仕事を休んだ。
サボった。
丁寧に順から話すと、10分寝坊したのだ。すこし急いで準備しないと事業に間に合わない。でも、急いで準備をするというのがあまりにも億劫だった。億劫すぎて、あまりにも仕事に行きたくなくて、ああ仕事行きたくないなあ、と思いながら着替えていた。あんまりよくないなあ、と思って、軽めの吐き気をもってトイレに行ったら朝食をすべて戻した。
朝ストレスで食事を戻してしまうことが多くて、朝ごはんをあまりがっつり食べられないのが吉と出た。親にハイターを貸してほしいと声をかけたら熱を測れと言われて、測ったら37.8あった。平熱よりちょうど1度高い。けれど寝起きの体温の高さに鑑みれば、出勤できないレベルではない。
というか本当は、仕事には行かなければならない。仕事には行かなければならないし、生活をしなければならないし、やらなければならないことは山ほどある。
でも、熱と嘔吐という免罪符を手に入れた途端、体はピクリとも動かなくなった。半端に着替えていたシャツに指をかけたままぼんやり遠くで職場のにおいがする。行かなきゃ。仕事だ。締め切りが近いものはなんだっけ。今日は全体で何か会議があったはず。行かなきゃ。……また吐いた。
さすがに電車にはもう間に合わないので、職場に連絡をした。上司はいい人なのだがすこし喋り方の調子がキツくて、「またか」と言われたその一言がキツかった。そういえば昨日も途中駅で過呼吸を起こして医務室で休ませてもらい、遅刻したのだった。
上司にはインフルエンザの検査に行くようにと言われた。休んでも構わないと。病院が始まるすこし前に熱を再度測ったら37.1に落ち着いていた。たぶんインフルじゃないだろうと思った。念のため病院に行ったら、土曜日に予防接種打ったばかりなのにねとかかりつけのお医者さんが微笑んで検査してくれた。陰性だった。
だから、この陰性の結果が出た時点で、僕は出勤できたはずだった。でも出勤できなかった。病院の前の公園でうずくまって動けなくなり、通院しているのであろうおじいちゃんに声をかけられた。大丈夫です。そう言って、家に帰ってきて、布団でうずくまって訳がわからないまま寝落ちた。

僕は仕事に行かなければならないのにそれを放棄した。最悪だ。死んだほうがいいと思う。
普段から熱心に働いている人がたまに有給を使ってリフレッシュするのは素敵なことだと思うし支持するけれど、僕は普段から仕事のクオリティはゴミだし同僚にも迷惑をかけ続けている。昨日も1時間遅れているし、今日だってもし時間にすごく余裕を持って起床していたらなんだかんだで出勤できたかもしれない。上司に明日なんて謝ったらいいんだろう。ただ死にたい。働けないことで周囲に迷惑をかけたうえにさらに自分が傷つくなんて身勝手極まりないので死ねばいいと思う。もともと歩く公害の粗大ゴミなのになんで生きながらえているんだろう。

今の職場だって、そりゃあ、腹立たしいことやふざけんなぶっ殺すぞと思うことはたくさんあるけれど、いままでいたどの職場よりもずっと良い環境で働かせてもらっている。愚痴を聞いてくれる同期もいる。ムカつくよねえ、と一緒に笑ってくれる先輩もいる。上司はもともと言い方がきつくて声が大きくて怖いけれども、根っから悪い人なわけではない。

仕事に行かなきゃならない。わかっている。
ここ最近の異常な過眠が朝起きることの足を引っ張っている気もする。休日は20時間くらい寝てしまう。そのの正体が、毎年恒例、季節性うつ病(要するに冬うつ)なのかもしれない、と思う。だとしたら今年の冬うつは強烈すぎる。現在の抑うつが重いからかもしれない。輪をかけて憂鬱だ。

でもなんにしたって最悪なのは僕だ。
仕事をする、生活をする、地獄以下の自分をなんとかマシにする、公害な容姿をどうにかする、ゴミ屋敷と化した部屋を片付ける、やらなければならないことはたくさんある。
その中でも第一優先であるはずの仕事も、なんだかんだでこうやってサボるのだ。吐いた?熱がある?僕のそれはどうせ心理的なもので、まわりにウイルスを撒き散らすものではない。どうせ迷惑かけるならできる仕事くらいやってから死ね。そうわかっているのに仕事から足が遠のく。今日も自分は最低だと思う。


ここまで書いたのでテレビをつけたらサッカー日本代表が1点だけ取っていた。後半44分。追いつくかもというわくわくすらない点差だ。僕が代表サポならもうスタジアムから帰るだろう。

 

 

仮想敵、あるいは自分の鏡としての太宰治と、自分のもたついた足跡について

映画「人間失格」を見た。いわずもがな、太宰が題材の。太宰の作品は、まあ、ひとしきり読んだと思う。好きとか嫌いはさておき、かなり惹かれる。駆け込み訴えなんて、天才が天啓で描いたとしか思えない。もの思ふ葦に載っている「兵法」は、僕が考えたり書いたりするときの1つのルールだ。
僕は絵ならゴッホが好きだし作家なら太宰が好きだ。そういう趣味なんだと思う。限りない同族嫌悪と、それを上回る憧れ、のようなもの。きっとこの国に30万人はいる「自称・太宰治の生まれ変わり」あるいは「自称・太宰治の理解者」のひとりだ。実際、人間が恐ろしくてたまらない。すごくこわい。道化でやり過ごす。人間に評価されない道化など無価値なのだと自分に迫るがゆえに勝手に自分で苦しんでいる。なにより、恐ろしいけれど、人間が好きだ。
僕がまるで口癖のように謝るのは、誰かに許されたいからだ。自分で許せないから。なんの罪を犯したのかは知らないけれど、とにかく許されたい。ここでは僕の恋愛遍歴みたいな話はしないけれど、それを求めるがゆえに崩したものが多すぎる。自分の罪は「洗っても、洗っても、落ちないようで、こうして一日一日、自分も雌の体臭を発散させるようになって行くのかと思えば、また、思い当ることもあるので、いっそこのまま、少女のままで死にたくなる。」……これは女生徒の引用。僕は少女ではないが、かなしいことに体は雌だ。

うつ病で体調を崩してから、本を読む機会が減った。
昔から付き合いのある友人各位でこそ、僕を読書好きと認識してくれていると思うけれど、最近はめっきり読んでいない。僕はもともと内省的な本が好きだし、読んだあと爽やかな気持ちになる本は一握りしか知らない。うつ病どん底のタイミングに、爽やかな気持ちになるのも、内省的になるのも怖かった。ものを考えるのが怖かった。思考に隙ができたら、その瞬間から自分が自分に自殺を脅迫し始める。何回かは実行した(のも、知っている友人がいるかもしれない)。だから考えずに済むように、無心になれることを探した。スマホにそれはたくさんあって、それこそたくさんの「気楽なアプリ」に僕は救われたし、いっときは恐怖と発作で乗れなかった電車にも、それに没入していれば電車に乗れるようになった。
習慣というのは簡単なもので、それから本を読む機会はとんと減った。気楽なアプリが画面を埋め尽くす、とは、晴一さんの歌詞だけれど、本当にその通りだ。
そこからドリフェス!にはまって、ほとんど気が狂ってしまって、本棚を飾り棚に変えた。400冊くらいあった本が、半分以下になった。
そんなに苦しくないエッセイや、爽やかな気持ちになる小説は、たまに読むけれど。

もともとあんまり地に足がついている体質じゃない。ついているのかもしれないけれど、肝心の足が不安定だ。なにより、僕自身に「地に足をつけていたい」という強烈な意思がない。いまでこそ「自殺しない」という人生に移行したけれど、去年の今頃はまだ30歳の誕生日に死ぬつもりだったくらいだから、自分の人生みたいなものが、長期的なスパンであんまり見えていない。四捨五入したら30歳になるのに何を言ってるんだ?ってかんじなんだけど、本当にそうなのでしかたない。
言い訳をつけるなら、一回倒れて体質がまるきり変わった。低気圧で頭痛がするなんてまずなかった。加齢と言われたらそうかもしれないけれど、妊娠出産も経ずにここまで体質が変わるのは、やっぱり病気になり、診断を受けてから数年、1日たりとも欠かさず薬を飲んでいる影響はあるんだと思う。

僕は、「自殺しない」という方向に生き方の舵を取った僕自身と、まだあんまり向き合えていない。
そのつど、それなりに考えるし、毎日楽しいこともある。ブログに書き起こしたりもする。仕事は憂鬱だけど、今の職場は恵まれている。だけど、限りなく短命的というか、圧倒的に感情と衝動に揺さぶられて生きている。衝動が強すぎて、自分でも唖然とすることがある。今まではそれでもよかった。だっていざとなったら死んじゃえばいいやと思っていたし、そしたら奨学金はチャラになるし。だけど、それを禁じ手としたら、生きるのが途端に難しい。もともと相当ハードモードなのに。
経済的なこと、自分の家事スキル、実家のこと、親戚のこと、自分自身でつくる家族や友人関係のこと、ぜんぶきちんと考える必要があって、そして、考えるだけじゃなくて「決めて、行動に移す」フェーズに、もう僕はしっかりシフトしないといけない。こんなこともう50回くらい大事な友人に話したと思う。まだ実行に移せてないのかよと叱られそうだし叱ってほしい。
ならばどうする、を、自分にいっぱい突きつけている。
仕事に行くのを嫌がって朝から吐いている場合じゃない。いやなんていうか、それはもうしょうがないんだけど、そういう体質として、きちんと生きていくには。社会人として、生活者として。それから、それこそ初めて人間失格を読んでうなされたあの日の僕に、叱られないためには。あの少年に「こっちも戦ってんだよ」と今の僕は言えなくて、言う資格はなくて、だから、あの日の僕に胸を張れるようになるには。

考えたり決めたりするには毎日はせわしなくて、かなしくて、ちょっとしんどいし、太宰の映画を見ればこんなことも書く。僕は、まぁ、なんというか、限りなく「太宰側」の人間なのだ。ただ、太宰と違うのは、まわりにいるひとが、僕に破滅を迫らないこと、だと思う。地に足がつかず、足に力が入らない僕の手を取り、車椅子を差し出し、食事を与えてくれる。僕が太宰にならなかった最大の理由だと思う。一歩間違ったら、女の人を狂わせて死んでたと思うし、我ながらその才能あると思う。道化として花を差し出す才能に自信がある。
だけれど、道化としてではなくて、自分として、自分の手で言葉で育てた花を差し出したい人がいる。
ならばそろそろ、僕は自分で立ち、自分で食事を作れるようにならないといけない。そのためにどうしたらいい、と思うに、まずは自分の部屋を片付けようと思う。1つ強大な断捨離の意思でもって。
それから、金の使い方を改め笑、すこしまた、本を読もうと思う。本を読むというのは、僕の性質そのものだし、僕を僕たりえるために必要なものだ。最近それを忘れていただけで。

僕は本当はずっと∠RECEIVERの本質をわかっていなかったのだな、と思う。本質というか、前提。∠RECEIVERであるために、強く持たなければいけないもの、意思、耳、目、そういうもの。そういうものを持っていても、足場が崩れちゃダメだから。
社会人として、そして毎日を生活する者として。働いて、稼いで、そのお金で生活して、貯金して、家事も自分でして、自立して……。そういう「毎日を生きる」ことを、サバイブすることと呼ぶんだ。それができて、はじめて、見えるものがあるはずなのに。僕はいつも土台をスルーして見栄ばかり張ってしまう。毎日を闘ってサバイブして、そのうえではじめて手に入るものの存在。それが∠RECEIVERなんだなと、いまさらきづいた。ならば、さて。気づくのは簡単、動くのは難関。それを習慣に落とし込んで、日常にするのはもっと困難。
いま頭の中で、ポルノのワンモアタイムが鳴っている。「ならばどうする?」。


これはさらにどうでもいい話だけれど、僕のコミュ力って道化なんだなって改めて思った。はたしてあれをコミュ力と呼ぶのかはさておき。恥の多い生涯だ。現時点ですでに。天使みたいないい子だと、誰かが思ってくれたらいいけど、あれは太宰の願望だろう。僕もそうであるように。

 

さて、好きな人と話したいが、そのまえに、家族とご飯だ。

 

 

ダイアリー 〜19/08/05 「あなたの」サウダージ、「僕の」∠RECEIVER

8/3、喫茶ポルノに我が魂の双子であるよるかわくんと共に突撃し、はなむけビールをアホみたいに飲んだあと、別のカフェで終電ギリギリまでいろんな話をした。
いや、ほんと、いろんな話をして、その夜もツイッターで暴れ倒して笑、下記のような文章を書いた。


***

はじめてラインを聞いた中学生のとき、初恋がまだだった僕は「素敵なフィクション、ラブストーリーだなあ」と思った。高校生になって初恋に遭遇したら、ラインは「僕の曲」になった。
友人の結婚式を重ねるたび、学生のときにはわからなかった「はなむけ」の歌詞が身に染みるようになった。いつか会えたら愛してると言ってやる、と腹をくくれた。初めて聞いたとき、そんな日が来るなんて思わなかった。
もし、東日本大震災がなかったら、僕は∠RECEIVERを理解できないままだっただろう。けれど、いま、あの曲は僕そのものになった。

余白の美である「AGAIN」に、自分の感情を込めすぎて、僕のAGAINはきっと他の人のAGAINと違う曲だと思う。この曲は他の人の誰とも違う、僕の解釈で僕の曲だ、と思える歌詞がたくさんある。

VSみたいに「もっといろんな経験をして、いつか、この歌詞をより理解できる日がくるといいな」と思える曲もある。
まさしく「ひとひら」だ。あれは飽きもせず聞き返したメロデイ、わかっていなかった歌の意味、それがいまならすこしわかる気がする。そういう「自分におきた小さな奇跡」を、ポルノグラフィティの楽曲は祝福してくれる。

「最初聞いたときはただのフィクションだった曲が、気づいたら自分の曲になる」から、人生のそばで、人生を彩ってくれるから。
「余白に感情を込めて、自分だけのお守りにすることを許してくれる」から、ポルノグラフィティが好き。

僕は今夜も、「僕の曲」を抱きしめて眠りにつける。幸せだと思う。

***


ほんとうに、幸せだと思う。

今日、僕はこれを、機内モードにしたスマホで、飛行機の中で打っている。
僕は飛行機で、いわゆる「非常時にはお手伝いいただくお席」に(なぜか)しょっちゅう当たるのだが、今日もその席だ。

キャビンクルーが脱出脱出脱出と指示をだしたら、外の様子を確認して、火事や煙のような異常がなければ、非常口をあけてください。まぁそんなもんだけれど、以前旅行会社に勤めていたときは、この席はあまり人気がなかった。もうそこしか座席が取れないときは、必ず事前に伝えていた。だからたぶん、あんまり人気のある席じゃないんだと思う。そりゃそうか。いやだよな非常口あけるなんて。

今日もその席に座って、ふと、夜川くんとした話を思い出した。上に書いたような、「自分の人生の経験値に伴って、持つ意味の変わる曲」。
僕がいわゆる「非常口のお席」を断らなくなったのは、わかりやすく、3.11、それを経た半年後、以降のことだ。

うちの父は、ちょっと異様に「戸締り用心火の用心」にうるさい。たぶんあんまり人を信じてないから、防御をがっちり固めてるんだと思う。地震をはじめとした災害対策にもうるさい。たとえ5分後にまた火をつけるとしても、一旦離れるなら、火だけではなくガスの元栓を閉めろと言われて育ってきた。東日本大震災の前から、うちにある家具にはすべて突っ張り棒や滑り止めシートが設置されていたし、それで足りないときは鎖で家具と部屋を繋いだりしていた。親父の部屋、リビング、玄関にはそれぞれ非常用の持ち出し袋がある。玄関には、非常時に数日間過ごせるだけの食料や簡易トイレや、なんかもろもろが置いてある。
3.11の前は、いくら用心するに越したことないとはいえ、用心しすぎじゃないか、と思っていた。
でも、その用心のおかげで、震度5強をくらった我が家はほぼ無傷だった。僕の部屋の本棚から数冊落ちた程度だった。
お隣のおうちは、ワインセラーがひっくり返って、赤ワインと破片が流れていた。斜め前のおうちは、カラーボックスが倒れたと言っていた。
父はその日、職場で全員に帰宅指示を出し、帰宅が難しいなら職場の非常用備えを使えと言い残して、当時高校生の弟を迎えに行き、帰りにコンビニで「初日から乾パンじゃ味気ないからな」と冷たいまま食べられるレトルト食材を買って帰ってきた。
家にいた僕と母だけでは見回りきれなかった家の外のもろもろをすべて点検して、問題がないと確認してくれた。僕は動揺しているし、弟は明らかに顔色が悪いのに口数ばかり増えていて、母はそんな僕らのケアに必死だ。そんななか、父の冷静さと的確な行動には、一種のこわさすら感じるほどだった。
その夜、つめたいカレーを食べながら、「ニュースみるのも大事だけど、いまは気が滅入るから」とテレビを消した父と、無傷で帰ってきた弟を何度も抱きしめる母を、僕はたぶん忘れないと思う。

僕は父のように冷静ではないし、用心深くもない。むしろいろいろガバガバだ。ついでに身長もないので(父は180センチある)、緊急時の高所確認とかでまるで役に立たない。
そして母のように愛情深くもない。池田小事件のあった日、帰宅した当時小学生の僕を玄関先で抱きしめたまま「帰ってきてくれてありがとう」と泣いたり、3.11に弟に同じことをした、母のような深い愛情はない。
弟のように、虫退治が得意でもないし、何かあるたびにものを軽く持ち上げる腕力もない。鼻歌を歌いながらLEDを変えることもできない(弟も背が高い)。

3.11がひとつの転機になった人は、きっと多いと思う。
僕はあの日、ショックだった。自分がなにもできないことに狼狽さえした。
避難訓練とかちゃんとしてたし、いざ地震が起きたらなにをするべきか、頭ではわかっていたはずだった。でも、あの日の僕は揺れる床にうずくまることしかできなかったし、その後もただ混乱していただけだった。いま覚えば、あのころはまだうつ病を発症していなかったことだけが救いだ。

父のように冷静だったり、母のように愛情深かったり、職場で安全関係を担っている同僚のように人格者だったりしたら、きっとまた違うのだと思うけれど、僕はどれでもない。
災害時の僕は、どちらかといえば役立たずだ。

でも、役立たずだから、と諦めて終わりにするのは、僕にとって∠RECEIVERへの冒涜に近い。どうせなにもできないから、と投げ出すのは、少なくとも僕の∠RECEIVERではない。
3.11のあと半年、僕は「自分のことを自分でできないなら行くべきではない」という考えのもと、東北へ行かなかった。
9.10、つま恋。ロマンスポルノで、∠RECEIVERに出会いなおし、僕の曲になってくれてから、やっと東北へ足を運んだ。だから、僕にとって人生の転機は、3.11というより、つま恋ロマポルである。

そんなわけで、あれ以来、非常用ドアのある席に座ったら本気でいつでも対応できるように安全のしおりを読み込むし、2011年にはまだ持っていなかった防災の知識もたくわえた、つもりだ。

人間的に、役に立たないから。人のために、安全のために、平和のために、考えるより先に体が動くほど、できた人ではないから。
せめて、いざというときに開ける脳内の引き出しを、よりよく保っておきたい。大量の知識を整理整頓してきちんと収納し、いつでも開けやすいように定期メンテナンスする。わかっている、ではなく、使える、ように。

というか、僕にはそれしかないのだ。運動神経もなければ身長もなく、とっさに人を守れる勇敢さもなければ、慈愛をもって人に接することもできない。なら、せめて、使えそうな知識を頭に突っ込んでおいて、使うときにはスムーズに取り出し、自分で実行できないなら、実行できる人に指示を出す。……出せるかなあ。ちょっと不安だけど。でも、それをすることが、そのためのアップデートに、毎日は無理でも、たまに取り組むことが、僕をより∠RECEIVERにしてくれる。非常用ドアのある席に座ると、いいチャンスだなと思うから、これを打ち終わったらまた安全のしおりを読み込もうと思う。

もしポルノに何か伝えたいことが伝わるとしたら、「"僕の∠RECEIVER"をつくってくれてありがとう」と言いたい。

あ!これ書いてて思った。無事着陸したら、人命救助(?)の講習受けられるところ探そう。前回受けてからしばらく経っちゃった。AEDとエピペンは躊躇うな!だ。

自死の予定が暫定延期された以上、自分がもっと∠RECEIVERになるために生きないとな。
最近の僕はちょっと、∠RECEIVERじゃないから。とりあえず、貯金して、親孝行しよう。
……この夏はもう予定だらけだけど、機を見て。奨学金もちゃんと返してさ。金遣いも……落ち着きたい……な……笑

 

 

「正木郁という物語」に寄せるファンのひとりごと

正木郁という物語、に夢をみるオタクのひとりごと。

※以下全部、個人の戯言です。
※舞台 大悲に言及しています。ネタバレはないけど気をつけてね。


***

「応援してください、と頼むことはしません。ただ、僕を見ていてください。ハートは僕がつかみます!」

ハンサムフェスティバルという大きなイベントで、デビュー1年目の彼が放った「壮大な夢物語」が、現実になるのを体感している。まだ、彼がデビューしてから、3年と少しだ、と思う。正直、信じられない。

僕は、彼が芸能界デビューしたドリフェス!のファンだけれども、郁くんas千弦くんが所属するDearDreamではなく、ライバルユニットKUROFUNEのほうが好きだった。だから、郁くんを熱心に追いかけて、全通して……というわけではない。
でも、目を離せない魅力がある。だから、ちまちまではあるけれど、彼の舞台や活躍を見に行くことにしている。

郁くんの初舞台だった「片想い」を見たとき、僕はこう書いている。

「ああ、この子を応援したい、この子が役者として大成するのを見届けたい、この子がもっともっと役者として素晴らしくなっていく瞬間の目撃者になりたい。そんなふうに思わせてくれる、素晴らしい役者さんでした。」
http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2017/08/06/215400

そして、今日も僕は、正木郁くんが役者として素晴らしくなっていく瞬間の目撃者になりたい、とひしひし思ったのです。

あれからいろんな舞台で彼を見たけれど、見るたびに「ここが良くなってた!」「前回よりも魅力的だった!」と、心を躍らせることができた。初主演だった男子はつらくないよ?のときも、推しの戸谷さんを見ながら、郁くんもほんとうに素敵だ、とワクワクした。

今日、出演している大悲という舞台を見てきた。実際の無差別殺傷事件を題材にした、すごくシビアな舞台だった。弁護士、被害者、加害者、死刑、命、正義。そのほか、あらゆるものについて、思考を巡らさざるを得なかった。
ファンタジーでもなく、歴史モノでもなく、ポップでもコメディでもない。現代社会のシビアさ、に淡々と向き合う舞台だ。ド派手なミュージカル、ハッピーな拍手喝采が好きな人には、あまり向いていないかもしれない。

ここでは、ネタバレになってしまうしその舞台の本筋にはあまり触れないけれど、またそこに初めて見る「役者・正木郁」がいた。
そんな演技もできるのね、そんな声も出せるのね。そんな涙も汗も、流すことができるのね。
脚本がまずすごく面白く、しかも名だたる実力者たち。西村雅彦さんはやはり「格が違った」し、玉城裕規さんも圧倒的だった。壮一帆さんも、名優なのだと一目でわかった。
そんななかで、郁くんも、すごく魅力的だった。演技も、重かった。腹の底に響くような音と、唸る声。声にならない悲しみと後悔。
がっちりとした体つき、筋肉、精悍で凛とした青年。目で演じる彼の視線ひとつ、握られて震えた拳ひとつで、ここまで心を揺さぶられることができるのか。

きっと、初舞台だった「片想い」のとき…2年前の郁くんが、今回の役をやっても、ここまで心は震えなかっただろう。
正木郁は、ずっとずっと進化している。見るたびに新しくワクワクさせてくれる。そこにある努力の痕跡をなぞらせてくれる。役者として、「今が最高」を、更新し続けてくれている。
だから、今回の大悲での演技に、説得力があった。ありすぎて、背筋が凍るほどに。

また、僕は先のブログで、彼を「憑依型の役者」だと評したけれど、いまは違うと考えるようになった。カメレオンでもない。ただ、「努力型」なのだ。感情がとても豊かだから、自分の演じる役に一生懸命こころを入れ込んで、感情移入する。きっと一公演ごとに。役と、感情を「わかちあおう」とする。

これはいちオタクの見解にすぎないけれど、郁くんは、決して「器用」ではない、と思う。芸能生活と両立していた大学生活では、友だちは2人しかできなかったなんて言っていたから、根っから明るいハッピーな人でも、ない、ような気がする。
不器用で、感情豊かで、実直で。
芸能人として、俳優として、才能に満ちているか?と言われたら、そういう人はもっと他にいるかもしれない。でも、彼は「芸能界」という場所で咲き続け、正木郁という役者を続けて「夢」を見させてくれる、天性と魅力に溢れている。

正木郁は、物語なのだと思う。

「見ていてくれたらハートは掴む」
冒頭にもあげた、ハンサムフェスティバルでの彼のセリフだ。並大抵の器じゃ、あるいは覚悟じゃ、そんなこと言えないだろう。
結果、ただ「見ている」僕は、いま「正木郁」という役者の物語の次のページが楽しみでたまらない。デビューという第1章にはじまり、初舞台、初ライブ、初主演…いろんなことを重ねていく郁くんの1ページ、1ページが、ほんとうに面白い。
ハートを掴む、という、夢のことば。ファンサービスの言葉を、彼は実現している。僕はそれを体感している。

全通して認知されているような、そんな熱心なファンではない。こんな僕ですら、彼の物語の次のページに、必死に手を伸ばすし、見逃したくない、と思う。
冒頭だけでこんなに面白い物語なら、かりにすこし中だるみしたとしても、さいごには傑作たり得るだろうという、確信すらある。

役者「正木郁」という物語の、目撃者で、これからもいたい。
たとえば彼が30歳になったとき、そこにどれだけ素晴らしい物語があるのか、いまから楽しみでたまらない。


かおるくん、デビューしてくれて、ありがとう。あのとき、千弦と手を取ってくれて、ありがとう。今日のかおるくんの演技を見たら、チヅはきっと目をまんまるにして、負けていられない!と、ワクワクするんじゃないかな。僕は今日、あんなに苦しくて重い舞台でも、あなたという物語に、すこし気持ちをスッとさせてもらえました。
かおるくんの満ち足りたいまと、輝く未来と、極上のランディングを祈ります。
微々たるものだけれど、僕のエールも、どうか届きますように。

 

 

ダイアリー 〜19/06/25 胃が痛い

自分でもどうしたらいいのかわからないときってあるじゃないですか。
同級生が誕生日を迎えてそれを祝うたびに、年齢をまじまじと眺めるわけだけれど、自分にアラサーという感覚がなさすぎる。もともと性別とか年齢とか苦手な概念だけど、それにしたってひどいな、って思って、考えていて。自分の年齢感覚、大卒のうつ病のところで止まってるんだなあ、って思い至った。
もしかしたらまったく関係ない被害妄想なのかもしれないけど。社会人、から、社会不適合、になったところで、止まった時計まだ動いてないし、なにより、こういうことを考えたときに真っ先に思い浮かぶくらい、自分にとってコンプレックスなんだなっていう驚き。驚き…ではないけど、自覚というか。自分が大卒の一発目でくじけたこと、コンプレックスなんだなって気づいた……気づいたって変だけど。もっと上手くやれてたかもしれない、自分が悪かったから、って、いまでも思うことあるくらいだし。
だけど現実は現実で歯車回ってるから、どうにかしないとね。
そのシリーズでいくと、うつ病になってから、毎日これでもかってくらいの服薬があるわけですよ。最近めちゃくちゃ減ったとはいえ、でもまあ、可愛い量じゃない。
それにアラサーになったことも加わって、内臓が疲れやすくなった。……気がする。
というかもともとがすごく健康優良児で、違和感あったらすぐ休む!翌日元気!だったので、慢性疲労とか慢性体調不良と呼ばれる状態にいまだに慣れない。
とくにちょっと薬増えると胃が痛い。胃薬も併用してるんだけどね。お医者さんと相談しながらちゃんと飲んでるけど、でもやっぱり体はギシギシなんだろうなあと。
睡眠量は増えたのに、寝つきはますます悪くなった。結局まだ眠いけど起きて出勤するから、パフォーマンスが悪いとか。

これはここ1ヶ月の話だけど、わけわかんない行動も増えた。だいたいイライラしたりトゲトゲしたり、自傷したりするときって生理周期とか明確なストレス原因があるものだけど、ない。強いていうなら梅雨ってくらいで。会議中、ただでさえ抑うつなところに同僚の提案が袋叩きにされるのが耐えられなくて顔面にペンで色塗っちゃったり。髪かきむしって机にぶつける、とかも、家ではあったけど外ではなかったのに最近やってしまう。職場でもイヤフォンしてないとつらかったり、食事に入ったファミレスで隣の席の人の声が嫌で嫌でたまらなくてソファ叩いたときはめちゃくちゃ反省したし自分が嫌になった。
でも思い返せばさあ、別に今に始まったことじゃないんだよな。小学生の頃から大学に至るまで、やってたと思う。シャーペンで顔ぐりぐりしてニキビ潰したこととかあるもん。覚えてる。
でももう学生じゃないんですよ。どうしたらいいんだよと。
社会人になってからあんまりこういうことなかったな、って思って去年の6月の手帳とか見返したけど、そもそもこういうよくわからない行動をしそうな日って、仕事行けてないんだよな。発作起こしたりなんだりで。そういう意味では、対うつ病として考えたら、多少のストレス飲み込んで出勤できるのは偉い!けど、対自分の傾向で考えたら、この自閉だかなんだかわからない行動をどうにかしないといけないわけですよ。
ここまで書いてわけわかんなくなってきた。だからなんなんだ……。具体的な対策があるわけでもなく、対策練ることができるほどのサンプルもなく、ただただ生きづらいだけである。でも梅雨だしみんなしんどいもんでしょう?自分だけ辛いなんて思ったらだめで、みんな辛いのに頑張ってるのに僕は頑張れなくて、理想は「みんな辛いからゆっくりやろう」ってなることだけどそうはならないから、僕も頑張らないといけないんだけど。

とりあえずこの胃痛はそろそろ病院案件なので近々病院行きますけども。なんの話だ。なんか書かないと死にそうだったんだよ。メルカリの梱包しろ。

 

ダイアリー 〜19/06/06 感化されやすいタイプです

 


舞台 #LOOSER 感想まとめ
https://togetter.com/li/1363653


というわけで、LOOSER観てきました。
自分の信念。自分の大義、正義。
戦乱の世、平和。
ぶつかるのは悪と正義じゃなくて、正義と正義。大義大義。そうやってうまれた今の日本は、ほんとうに平和なのかなあ。
僕は。
僕の大義とは、僕の正義とは。僕の貫くべき核とは。
僕が持ちたい核、それはもうわかっていて、手元にもある。だけど、それを手にするための行動をしきれているか、っていうと、自己否定しかできない。

ちゃんと自分の決意ブログ読み返そう、って思わされたしあしたから変わらなきゃなって思った、くらい良い舞台だった。
死にたいけどね。
から、いまこれを書いている。

厨二病で結構なんだけど、自分の中に、
「明日とか未来とか決意とか自分の核とかそういう前進へのエネルギーとそれを信じる自分」と、「希死念慮!鬱!自殺!現実滅べ!な自分」がいるんですよ。2人じゃなくてもっとグラデーションで色々いるんだけど。
その濃淡が、相対していつもバトってるから、取りまとめるべきの僕自身が、一番どうしたらいいのかわからない。
みんなこういう気持ちをどう飼いならしてるんだろう。僕の死にたいほうの部分は人よりちょっと濃い(っていう診断)らしいけど、世間的にもあるわけでしょう。

今さら吹っ切れて人生を謳歌…というか未来を見据える自分になるのが怖い。
でももうそっちにシフトしないといけないんだよ。死にたいけど……
だってこのあいだまでいつ飛び込むか考えてエンディングノート仕上げてたんですよ。いや今でも定期的に書き換えてるけど。

なのに、いろんなことがあって、恋人や友人や家族や好きなひと、好きなもの、そういう自分の両手に届く愛を示すものと、いつか共有したい未来ができてしまった。
こどもを産む予定はないけれど、今の社会や世界にとっていろんなことを思うし、いろんな生きづらさを感じるから、いつか、僕と同じような属性のこどもが……例えば孫の世代が、その生きづらさを感じなくなる社会になってほしいと思っちゃった。
いつか、を願ってしまったんだよ。
そのために、自分が行動して、自分の声が届く範囲にだけでも、花束を撒いていたいって。早死にはするつもりだけど、明日じゃなくてもいい。明日死ぬにはまだ、押し付けた言葉の花束が少ないと、思うようになってしまった。

どうしたらいい?
30歳で死ぬつもりで生きてきたここ数年の自分になんて言えばいい?どんな顔してこれから先の未来を生きていけばいい?生きることに、生活や思考をシフトさせるのめっちゃ難しいし、すごくしんどいし、怖い。たぶん死んだら解放されるのであろうものを、わざわざ手に掴んだり手放したりして生きていくの、本当に怖い。生きづらい。やっぱり死にたい。いますぐ。でも、いま死んだら、前までなら後悔なんか絶対しなかったと思うけど、いまは、後悔してしまうと思う。

だから、僕の言い訳になってほしい。
30歳過ぎて仮に生きていたとしたら、僕が毎日つらくて死にたくてたまらないとき、あのときお前が死ぬなと言ったせいだ、って、言っちゃうかもしれない。いつか。
でもいまは共犯者がほしい。
ひとりで、生きるために舵を切るのは怖い。120%希死念慮をエネルギーにして進んでいた人生を、いまからぐるっと変えるのは、ほんとうに怖い。10代じゃないし、人生を変えることは恐怖でしかない。それに打ち勝つ強さも、僕ひとりでは持ってない。
だから、だれか、僕の共犯になってほしい。背中を押してとまでは言わないから。生きることに舵を切るのが怖くてたまらない僕に、情けねえやつ、バーカ、って言ってほしい。

たまに愚痴を聞いて、たまに構ってくれたらいい。そうやって、僕がいつか死なない日のために、僕の共犯になってほしい。

誰に。というか、あなたに。
極上のランディングを決めるから、たとえそれがボロクソの失敗作でも、笑い飛ばす、あなたという共犯に、手を貸してほしい。


http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2019/03/17/211600

http://bookmarker35.hatenablog.com/entry/2016/09/01/005212


言葉で言うのは簡単。空想を描くのも簡単。
たったいまこの瞬間から、自分を具体的に変えるには。何が自分の、変えられる行動か。思考は簡単に変わらないけど、行動を変えていけば思考も伴うから。
僕はいま何をしたらいいんだろう。考えなきゃ、立ち向かわなきゃ。もっと具体的に。